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吾妻菊は咲かない



 陽射しの柔らかさが冬の終わりを予感させていた。風の中にはまだ氷の冷たさが残るものの、雪自体はもう何日も降っておらず、時折ぱらつく小雨の音が代わりに屋根を叩くようになった。溶け始めた雪が地面をぬかるませ、乾燥しきっていた空気にも潤いが満ちる。色彩を欠いた山水画のような景色も少しずつ変わっていった。
 閉塞の季節である冬がようやく終わると思うと、人々の心は俄かに開放的になる。そのためだろうか、往来を行き交う人の顔付きも心なしか晴れやかだ。あの婦人は春物の衣服を早くも物色しているのかもしれない。あの紳士は最後の冬の味覚を求めて彷徨っているのかもしれない。或いは皆理由も無しに散歩に出ているだけかもしれない。瑞々しい外気に触れることで、季節が正しい循環で巡ることを確認して安心するのだろう。
「そういや霖之助よ、鋏屋の婆さんが死んだのは知ってるか?」
「え、そうなのか? いつ?」
 久し振りに霧雨商店へ顔を出した霖之助は店主の口から思わぬ不幸を聞いた。霧雨商店の店主はやっぱりなといった様子で話を続けた。
「年末にさ。夏の口辺りから何だか具合が悪くてな。もう今年の冬は越せないんじゃないかって噂していたんだが、まあその通りでよ」
「へえ、全然知らなかったよ」
「だと思ったぜ。お前今年も年始の挨拶に来なかったもんな」
「忙しかったんだよ。そういえば明けましておめでとう」
「嘘付け遅えよ銀髪眼鏡。まあとりあえずよ、知らねえ顔でもないんだ。悔やみに行ってやるといい」
「そうだね。そうするよ」
 霖之助が答えると霧雨商店の店主は頷き、僅かな沈黙を挟んでから回想するように頬杖を突いた。
「しかし、実感が湧かねえな。正直、その辺の物陰からひょっこり出て来たって驚かないわ」
「どうして?」
「ほら、あの婆さんって俺が餓鬼の頃からずっと婆さんだったじゃないか。だから俺が生まれる前からも、俺が死んだ後もずっと婆さんとして生き続けているような気がしていたんだ」
「今だけだよ。そのうち薄れるさ」
 と霖之助は落ち着き払った声で言った。
「ああ。解っているよ」
 そこで別の客がやってきたので、霧雨商店の店主は湿っぽい表情を頭の片隅に押しやって商人の顔を纏った。

 霧雨商店を出た後、霖之助は真直ぐ件の鋏屋へ向かった。一家だけで切り盛りしている小さな店だ。店というよりも仕事場の一部に商品を並べているだけといった方が正しいだろう。その商品の一部を霧雨商店に置かせて貰っている縁で霖之助と故人は顔見知りだった。
 足を踏み入れると故人の孫である店主が霖之助を出迎え、遅馳せながら弔問に来た旨を伝えると、主は小さく微笑み丁寧に頭を下げた。
「大往生でしたよ」
 仏壇に手を合わせる霖之助の横で鋏屋の主が言った。
「家族に囲まれて、畳の上でね、逝きました。九十歳でした。長生きです。とても長生きでした」
 霖之助は長居せず、故人の墓の場所を聞いて鋏屋を去った。主は訪れた時と同じように頭を下げて彼を見送った。

 その後酒屋へ寄って安酒を一本買い、里外れの霊園を訪れた。日が傾き、西の空をくすんだ茜色に染めている。黒点のような烏が寒そうに空を横切って巣に帰っていった。自分の他には誰もいない。
 霖之助はゆっくりと霊園を歩き回り、等間隔に設置された雪交じりの墓石から目当ての墓を探し出した。墓誌に刻まれた真新しい戒名を確認し、形式的に手を合わせる。それから酒瓶の封を開け、逆さにして中身を墓石に浴びせかけた。無機質な水音が冷たい石の表面を撫でていった。
 九十年か、と霖之助は思う。確かに鋏屋の主の言う通りだ。人間にしては長生きした方だ。
 彼女は決して人に好かれるような性格の老婆ではなかった。口煩く、金にも煩く、自己中心的でアルコール中毒でクレーマーだった。しかし身内にも容赦の無い陰湿な注文の数々が職人のプライドを煽り、やがてどんな女性の手にも見事に馴染む素晴らしい糸切鋏を生んだ。今では人里のどこの家庭にも必ず一本はある人気商品だ。その生みの親であるという事実を確認するたび、得意気に鼻を鳴らすのが彼女の癖だった。
 欲深い彼女はとても人間らしかった。いつでも溌溂として衰えを知らなかった。ようやくその心臓が止まったのだ。
 いい機会だ、十分に休むといい、と霖之助は心の中で語りかけた。ひたすらに安息に眠ることは死者の特権であり役目でもあるのだから。
 霖之助は四半分程残った酒を飲み干し瓶を空にした。喉から胃腑にかけて心地よい熱が生まれる。吹き上げた息は白い靄になって消えた。僅か数分の間に日は落ちて辺りは薄暗い。昼が長くなってきたとはいえまだまだ落日は早いのだ。そして太陽が見えなくなると途端に気温も墜落する燕のように落ちる。
 そろそろ帰ろう。空になった瓶を抱えて墓石に背を向けると、不意に幽かな詠声が風に混ざり聞こえた。
「きはれてはかぜしんりゅうのかみをけずる」
 思わず足を止める。咄嗟に霧雨商店の店主との会話を思い出し、あの老婆が化けて出たのかと思った。しかし即座に思い直した。彼女が詩歌を詠むなんて風雅なことは例え生まれ変わってもしないだろう。それに聞こえたのは酒焼けした老人の声では無い。水晶のような澄んだ若い女の声だった。
 振り返り、酒で洗われた墓石を不審な目付きで睨む。もちろん墓石に変化は無い。恒久的だからこそ石は墓印に使われるのだ。次に耳を澄ませてみる。風の音しか聞こえない。当然石が囁いたなどということも無い。
 今の声は何だったのだろうか。ただの空耳だったのかもしれない。黄昏時の墓場で女の声がするなんていかにもありそうな話だ。そういう典型的な怪異への思い込みが深層にあって、思わぬ幻聴を招いたのかもしれない。
 或いは本当に何者かが詠っているのだろうか。一体誰だろう。宵の口に墓場に来る人間なんて普通はいないものだ。ならば幽霊かもしれない。随分雅な幽霊もいたものだ。しかし考えてみれば幻想郷でも一二を争うほど風雅な人物は幽霊だった。やはり幽霊かもしれない。
 俄かに好奇心が沸き起こった霖之助は、声の出所を求めて墓場をぐるりと回ってみた。だが期待に反して人影はおろか人魂すら見当たらない。
 少し落胆しながら敷地外れの無縁仏の区画を覗いたとき、枯れた楓の古木の下に土塊のような人影が見えた。近づき輪郭線が明瞭になるにつれ、その人影が枯尾花の見間違いなどではなく、確かな体重を持った人間の姿であることが解った。
 同時に人ではないだろうなという予測も立てられた。そこにいたのは今正に墓穴を掘り返して出てきたばかりのような泥まみれの少女だったのだ。
「きはれてはかぜしんりゅうのかみをけずる」
 少女は光の無い目をぼんやりと開きながら力無く座り込んでいた。半開きにされた口からは先程聞こえたのと同じ詩が、冷たい星のような奇妙に透明な声で紡ぎ流されていた。
 霖之助は暫くの間沈黙し、やや距離を置いて少女を観察した。少女は霖之助のことを全く意に介していないようで、いつまで持ってみても瀕死の白鳥のように動かなかった。少女の口からは声はするものの白い息は上がらず、傍らには出来の悪い落とし穴のようなやけに荒れた地面があった。
 霖之助は慎重に少女に近付き、掌を顔の前で翳してみた。濁った瞳は手の動きを追わない。見えていないのかもしれない。次に指を鳴らしてみた。反応は無かった。聞こえていないのかもしれない。とうとう腕を掴んで脈を計った。温度が無い。霖之助は腕を組み納得したように一人で頷いた。
 これは僵尸だ。不十分な埋葬をされたがために動き出してしまった哀れな死人だ。それほど珍しい存在という訳でも無いが、火葬が普及してきた最近の墓地で見かけるのは珍しいと言えた。きっと雪解けで土が柔らかくなったため、無意識に起き上がってしまったのだろう。
「きはれてはかぜしんりゅうのかみをけずる」
 死体は鍾乳石の先端から定期的に滴る水滴のように呆然と同じ言葉を繰り返していた。平安時代の文人、都良香が羅城門の鬼と交わしたという有名な漢詩だ。きっと生前は教養の高い少女だったのだろう。しかし死んだ今となってはその知識も物悲しいだけだ。
「氷消えては波旧苔の鬚を洗う」
 霖之助は試しに鬼が継いだという詩句を返してみた。もしかしたら何か新しい反応があるかなと期待したが、これといった変化は現れなかった。そうだとしても不思議は無い。何せ死体なのだ。きっと自分が何者なのかも、何故ここにいるのかも、何をしているのかも解っていないのだろう。残骸が奇跡的に口を開いているだけだ。
 死人の彼女が詠む詩に生者の自分が鬼の言葉を返すなんて、まるで説話と逆だなと少し可笑しくなった。なるほど物語中の一場面と考えれば、残雪の中、硝子のような声で詠う屍鬼というのもなかなか絵になるかもしれない。少女が醜く汚れていればいるだけ詩の美しさも映える。霖之助は鑑賞するような目付きで、見えない月を見るように死体を眺めた。
 流石に趣味が悪過ぎるか。
 己を律するように深く溜息を吐くと、気持ちを切り替え、目の前の死体をどうしてやるべきかを考えた。見つけてしまった以上放っておく訳にもいかないだろう。今は大人しく詠うだけでも、僵尸はやがて確実に人を襲い喰らう。死体の処理は生者の義務だ。ならば今の内に土へ返してしまうのが一番だろうと結論付けた。それは里人の安全を護る為という理由ももちろんあったが、それ以上に死者に対する同情もあった。死してなお古歌を口ずさむほど風雅に通じた少女が、死後理知の欠片も無い下品な怪物に成り下がってしまうのは余りにも哀しかった。
 霖之助は懐から特製の改造懐炉を取り出すと、口元の竜頭を捻り、底部を真横にスライドさせて短い管を引き出した。こうすることで火炎放射器としても使える。二三度試運転して炎を噴き出し、問題無く作動することを確認して火先を死体へ向けた。
 僵尸を処理するのには大掛かりな準備は必要無い。大抵の怪物と同様に火で焼き尽くしてしまえばいい。無縁塚で何十何百という死体を焼いてきた霖之助にとって造作も無い作業だった。
 死体は相変わらずぼんやりとした表情で霖之助を見上げた。霖之助は出来る限り穏やかな顔でその眼を見つめ返した。例え意識が無かろうとも、最期に見た人間の顔が、まるで無機物を見るような淡々とした表情だったらきっと淋しいだろう。
 そこでふと思う。普段は人気の無い無縁塚でやっているから気にしたことは無かったが、ここは人里にほど近いごく一般的な霊園だ。仮にこの現場を誰かに見られてしまったらどうなるだろう。香霖堂の店主が墓場で無抵抗な少女を無慈悲にも焼き殺して埋めたとかいう変な噂が立ちはしないだろうか。そうなってしまったら非常に不味い。
 それに無事隠密に作業を終えられても、何かを焼いた痕跡はどうしても残る。少なくとも鋏屋の主は今日自分が墓場へ来ていたことを知っているのだから、そこから話が膨らんで根も葉もない流言が広まったりはしないだろうか。香霖堂の店主が夜な夜な墓場で何か怪しい行為に及んでいるだとか。そうなってしまったら非常に不味い。
 霖之助は段々と首を傾げだした。僵尸を処理することは悪いことではない。それは確かなのだが、今この場で行うのはいささか不味いかもしれない。商売人である以上、宿命的に外聞は気にしなくてはならないのだ。
 考えあぐねた結果、霖之助は作業を中断することに決めた。皆の安全も大事だがこの身の安全も十分大事だ。今この場で死体を焼くことは見送ろう。どうにも間が悪い。
 とはいえ、それならばこの死体はどうしたものか。放っておく気にもならない。ただ埋め戻すだけではまた起き上がってしまうかもしれない。やはり確実に焼いておきたい。
 懐炉を元通りに組み直しながら、せめて場所がここでなければ思う存分焼けるのだけれどなと内心溜息を吐いた。死体は相変わらず静かな眼で霖之助を見ていた。

  ◇

 結局、闇に乗じて死体を香霖堂にまで運んできてしまった。ここならば誰の目を気にすることもないし、焼く以上の設備も整っている。そもそも僵尸は不十分な埋葬が元で生まれた怪物だ。ならば丁寧に送り直してやるに越したことは無い。湯灌し装束も整えて六文銭も持たせてやろう。墓地には遺骨だけ返せばいい。考えてみれば墓場なんて態の良い散骨場に過ぎない。
 霖之助は材木のように無抵抗な死体をひとまず裏手の土間に置いておくと、表へ回って玄関へ入念に鍵をかけた。店内に死体がある状況を万一天狗にでも覗かれようものならば堪らない。照明を落とし、ストーブのスイッチを切り、カーテンを閉めて回る。すっかり店仕舞の形にしてしまうと、今度は浴室へ行って湯船にお湯を張った。
 湯の用意が整うのを見計らって土間に置いておいた死体を浴室へと運び込み、泥だらけの服を脱がせて裸にした。血の通わない少女の体が露わになる。バランスのいい体だな、と霖之助は思った。まだ初々しく素直な心で、世の中の多くの出来事に漠然とした希望と憧れを抱いているような体だ。
 そう思った後で、どうして死体からそんな印象を受けたのだろうかと不思議になった。いくら溌溂として見えようが所詮は死んでいるのだ。しかし想像していたよりもずっと綺麗な状態であるのは確かだった。少なくとも表面上はそうだ。内臓は腐っているかもしれないが。
 霖之助は改めて腕を捲り作業を開始した。まず服に付いていた泥を落とせるだけ落とし、軽く絞って皺にならないようハンガーに架けて干す。これは後で売り物にするのだ。それから裸の死体に向き直り、横から抱えるようにして浴室用の低い椅子に座らせると、柔らかいスポンジで石鹸をよく泡立てて丁寧に体を洗った。
 死体の肌は何時間も氷室に閉じ込められていたかのように冷たく硬く強張っている。実際似たような環境に置かれていたのだから当然だ。硬いからといって力を籠めて擦ると内側で腐った皮膚が熟れたトマトのように剥けてしまうこともあるので、赤子の肌を撫でるような気持ちで優しく洗う。幸い少女は死んで間もないのか、触れていてどこにも腐った感触が無く、これならばあまり神経質になる必要も無さそうだと霖之助は内心胸を撫で下ろした。
 そうと解れば作業は早い。霖之助は慣れた手つきで、首、肩、背中、腰、臀部と汚れを濯ぎ、前に回って両腕、脇、胸、乳房、腹、股間、両脚と泥を落としていった。体が終わると瞼を閉じさせて顔を洗い、耳朶にこびり付いた泥を掻き出す。口腔に指を突っ込んで砂粒を取り払い、掌で石鹸を泡立て丁寧に髪を洗う。
 最後に手桶で頭からお湯をかけて濯ぐと、排水溝に土色をした泡が溜まって渦を巻いて消えた。
 洗ってみると死体とは思えない肌理の細かさに驚かされる。死んで間も無いというよりか、これではまるで生きている少女を相手にしているようだ。生前は肌の手入れに人並み以上の気を遣っていたのだろうか。
 霖之助は何となく死体の顔色を窺ってみた。もちろん死体には何の変化も無く、微睡んだような瞳でぼんやりと中空を眺めているだけだった。実際、ただ寝惚けながら風呂に入っている少女のようにも見えた。泥だらけでない分、一見して死体という感覚が薄れているのだろう。霖之助は死体の手を握り、改めて少女の温度の無さを確かめた。
 風呂から上げ、タオルで水気を拭き取り髪を乾かす。その後、用意していた白装束を着せる。こういう時、和服は優れているよなといつも思う。死体の固まった関節でも素直に袖を通してくれる。洋服は動かぬ相手に服を着せる事態を余り想定していないのだ。
 白装束を纏ったことで、ようやく少女は死にたての死体らしくなった。服装が与える印象の変化とは実に大きいものだ。
 それから抽斗の隅に転がっていた古銭を六枚麻紐に通し、死体の首から下げてやった。この六文銭が実際に三途の川の渡し守の手に渡っているのかどうかは疑問だが、とりあえずそういう風習としてやっておけば文句は言われない。ついでに死化粧でもしてやろうかと思ったが、下手に白粉を塗りたくって却って醜くなるとも限らないので止めた。
 準備の整った死体を抱きかかえて、霖之助は裏口から外へ出て行った。風呂場から出て来たばかりの身を冴え冴えとした夜気が静かに刺す。森に近い立地の所為もあろうが、昼間と比べて随分気温が落ち込んでいた。
 この寒空の中を進まなければならないかと思うと気が滅入る。霖之助は扉から二歩だけ動いて立ち止まり、憂鬱そうな顔をして空を見上げた。薄い雲が見渡す範囲を全て覆っている。星一つ見えない。自分の吐く息がやけに白く浮かび上がり羅のように解けていった。
 温度の無いもう一人の方からは白煙は上がらない。それでいて肺は動いているらしいのが抱えていて解る。不思議なものである。息を引き取った筈の死体にとって呼吸とは何なのだろう。必要の無いはずの循環を何故続けているのだろう。きっと生きていた時の習慣に違いない。良香の詩と同じように分離出来ないほど体に馴染んでいるのだ。
 今更ながら、生きていた時はどのような子だったのかな、と霖之助は思った。詩歌が呼吸とほぼ同等というのは物凄いことだ。少女は良香の漢詩をどこで知ったのだろう。寺子屋で習ったのだろうか。それとも何かの歌集に掲載されているのを読んだのか。或いは自分と同じように羅城門の鬼に関する論文に引用された説話で知ったのかもしれない。
 何にせよ相当に思い入れのある詩なのだろう。ならばその意味を理解し、遠い先人に同調するくらいの鮮やかな感性を彼女は持っていた筈だ。言葉を愛し、音律を愛し、そこに詠われたあらゆる風景を愛することが出来るような情緒豊かな少女だった筈だ。
 仮にこの少女が存命であれば、きっと良い客になってくれただろう。もちろんそれは仮定の話だ。今腕の中にある亡骸は冷たい幻のような残り香に過ぎない。
 そんなことを考えているうちにこちらまで手足が冷たくなってしまった。当初は焼き慣れた無縁塚まで持って行って焼こうと考えていたのだが、今となっては動きたくない。大体荷物を抱えて夜の森を行くのは手間だ。どこか近くの延焼の恐れが無い適当な場所で早々に焼いてしまおう。
 霖之助は死体を壁に立てかけておき、作業場から一抱えの薪とスコップを一本持って戻ってきた。森の木々や店との距離を目測で計りながら周囲を歩き回り、十分安全な距離を取った野焼きにふさわしい場所を求める。やがてここと決めた地面にスコップを突き立て、脛から下が隠れる程度のとても浅い穴を掘った。そして穴の中に死体を運んできて立たせ、死体を中心に古木の根を補強するように薪を並べていった。死体が支え無しで自立してくれたお蔭で作業は非常に簡単だった。
 数分後、即席の火刑場のような光景が出来上がった。霖之助は改造懐炉を取り出し、円錐形に組まれた薪の真中で立ち尽くす死体に向け突きつけた。死体は相変わらずぼんやりとしている。これから自分の身に何が起こるのか解っていないらしい。
 考えようによってはそれは幸福なことなのかもしれない。いかに痛覚の無い死体と雖も、体が焼け落ちて少しずつ質量を失っていく感覚は壮絶なものだろう。しかし仮にそれを予測していたとしても、彼女は抵抗しないのではないかと思う。僵尸になるなんて本意ではなかろうし、死体はやがて土に還るのが自然の摂理であるのだから。
「きはれてはかぜしんりゅうのかみをけずる」
 死体は二度目の葬送の前に呟いた。
 霖之助はその言葉を頭の中で静かに響かせるように聴いた。詩の文句に似合った清らな声だ。よく詠い慣れた声だ。
「氷消えては波旧苔の鬚を洗う」
 霖之助は弔詩代わりに二の句を継いだ。死体はやはり表情を変えなかった。
 霖之助は少しの間瞑想するように瞼を閉じ、ゆっくりと開くと、慈しみ深い穏やかな声で少女に言った。
「さようなら歌人。今度は迷わず、白玉楼へ行くといい」
 指先で装置を起動させると懐炉の先端から龍の息吹のような熱が噴き上がり、死体をあっという間に茜色の炎で包んだ。
 火の中で死体が一瞬微笑んだように見えたのは間違いなく気のせいだろう。
 赤々とした光に照らされながら、霖之助は凍えた指先を炎に翳し、立ち昇る野辺の煙をぼんやりと見上げていた。曇り空と煙の境目は遂に解らなかった。

  ◇

 ところが、である。いつまで経っても死体が燃えないのだ。火の中の輪郭は倒れもせず崩れもせずに立ち続け、とうとう薪の方が先に音を上げて炎が消えてしまった。死体には焦げ痕一つ付いていない。焼け落ちたのは着物となけなしの六文銭ばかりだ。
 仰天した。思わず「あれ?」と呟いた。折角哀切な雰囲気で送り出したのにこれでは台無しである。何かの間違いではないかと死体に駆け寄りあちこち撫で回す。口の中まで覗いて確かめるが、火傷一つ負っていない。というか粗熱すら残っていない。
 どういうことだ?
 単純に火力が足りなかったのだろうか。いやそんな馬鹿な。人の体など蝋燭の小さな火でも燃えるのだ。もしかすると、曲がりなりにも妖怪化したことで肉体に変化が起こったのかもしれない。有り得る話だ。
 ならば今度は人間に向けたそれではなく。妖怪を相手取るつもりで焼けばいい。そこで懐炉の竜頭を倍以上に捻り、放射する熱量を上げて再度死体を猛火に包んだ。
 だが燃えない。
「んん?」
 もう一度竜頭を捻る。三度死体を劫火が包む。燃えない。
「何故だ?」
 霖之助は驚きを通り越して呆れてしまった。鉄が気化する温度だぞ? 大地が蕩ける温度だぞ? 何だこの耐熱性は? 素材は何だ。あったら欲しい。いくら何でも頑丈過ぎる。容易いはずの作業でとんだ裏切りに遭った。そして死体は相変わらずぼんやりしている。
 火が駄目ならば逆に低温はどうだろう? 霖之助は死体を抱えて店に立ち戻り、作業場の奥の階段から地下の工房へと下り立った。
 壁一面に怪しげな機材が並び、ランプに照らされた棚からは薬品的な臭気が漂っている。霖之助は四人掛けのソファー程もある大きな水槽に裸の死体を寝かせると、液化窒素のボンベのコックを開け、死体の上から満遍無くたっぷりと流し込んで蓋をした。
 剃刀程の蓋の隙間から際限無く冷気の雲が流れ落ちる。十五分ほど放置してから取り出すと、死体は全身を隈なく霜に覆われた石膏像のようにますます硬くなっていた。無事冷凍されてくれたらしい。霖之助はほっと溜息を吐き、坑道で岩盤を砕くために使うような大型の鎚を取り出した。
 ちょっと無残な状態になるが許してくれよ、と霖之助は心の中で語りかけた。燃やせないならば解体するしかない。動き回れる肉体が無ければ僵尸は成立しないのだ。これで砂になるまで砕き、その後で念のためもう一度焼いてやろう。だから今度こそ成仏してくれ。
 霖之助は鎚を担ぐようにして大きく振りかぶり、渾身の力を籠めて凍った死体の額へと鎚を振り下ろした。
 激しい金属音が地下室に響いた。実際鋼鉄のような手応えがあり、霖之助は打ち下ろしたのとほとんど同じ勢いで弾き返されて転んだ。
 無様にひっくり返ったまま、腕から肩にかけて走った強烈な痺れを取ろうとして忙しく擦りながら呻く。その横で死体がむっくりと上体を起こした。思わず顔を向ける。額には凹み一つ付いていない。冷凍されたはずの体も表皮に付着した霜の所為でそう見えていただけらしい。
「おいおい」
 霖之助は信じられないといった表情で呟いた。熱に加えて低温にも衝撃にも強いだと? 一体どこまで頑丈なのだ。だんだん意地になってきた。どうにかしてこの鋼の防御を崩せないものか。
 それから霖之助は何時間もかけて思い付く限りの破壊方法を試した。しかし何を試してみても望んだ結果は得られなかった。刃は通らず、鋸は欠け、斧は折れた。鑢も擦り減り、ドリルも穴を穿たず、万力でも潰れず、巻上機で四肢を引き延ばしても千切れない。毒瓦斯も毒水も効かず、真空にも耐え、高圧も物ともせず、爆破も空振りに終わり、電気も絶縁し、強酸も強塩基も弾いた。

 霖之助はもう草臥れてしまった。なんだこれは?
 解ったことは、この僵尸は自然発生型の個体では無く、既に何者かの手によって相当な改造を施されているということだ。そして今の自分の技術力ではその人物に敵わないということだ。
「ああもう、何なんだよ一体」
 霖之助は疲れ切った声で死体に語りかけた。死体はもちろん答えない。生物としてはほとんど地獄のような状況を幾度も潜り抜けてなお、傷一つ無く平然として座り込んでいる。
「きはれてはかぜしんりゅうのかみをけずる」
 霖之助は深い溜息を吐いた。これでも死体の処理にはちょっとした自負のようなものがあったのだ。敗北感は嫌でも込み上げる。一体何処の誰が何のためにこんな神の不可侵性のような過剰なまでの防御力を付加したのだろう。最強の矛を防ぐ盾でも作りたかったのか? フランケンシュタイン博士だってここまではしないぞ。いかにも文学少女のような細い体に一体何を埋め込んでいるんだ。
 霖之助は椅子に腰かけて二十分程仮眠を取った。何となく寒々しいので死体にも着物を羽織らせてやった。
 目を覚まし作業を再開する。といってもこれ以上試せる方法も無い。霖之助は難しい顔で死体とにらめっこをしながら、別の切り口を考えた。
 この死体はとにかく、ありとあらゆる物理攻撃を無効化する。ならば魔法耐性はどうだろう?
 これは良い視点かもしれないと膝を打った。何せ僵尸は呪符で使役が出来るのだ。ということは魔術的な指示を受け入れる下地はあるということだ。何か自壊を促すような指示を記した札を用意して額に張れば上手く土に返せるかもしれない。これは突破口になりそうだった。
 しかし、霖之助は今までに僵尸を使役したことが一度も無い。即ち呪符の書き方が解らない。碌に勉強もせず適当に「METH」とか書いて間違って暴れられたら面倒だ。十分な下調べをしておくべきだろう。
 霖之助は背伸びをして肩の筋肉を解すと、資料を探しに工房を出て店へ戻った。

  ◇

 時計を見るともう九時を過ぎていた。外はすっかり明るくなっている。太陽の眩しさが徹夜明けの目に染みた。一度顔を洗ってから書物を漁ろうと洗面所に向かう途中、不意に霖之助の足が止まった。
 どことなく甘い香りがする。怪しく思いよくよく神経を尖らせてみると、確かに自分以外の誰かが家の中にいるような気がする。幽かな空気の震えが幽霊のような違和感を伝えてくる。
 悪戯者の妖精でも入り込んだのだろうか。それとも単に客だろうか。そういえば開店していてもおかしくない時刻なのだ。試しに店内を覗いてみたが、誰もいなかった。
 しかし直前まで誰かが居たような気配はある。花のような蜜のような香りが虫を導く秘密の道のように残っている。おまけに慎重に隠滅されてはいるが、何かを探し回った形跡がある。
 泥棒だろうか?
 霖之助は野良猫のように息を潜め足音を消しながら一つ一つ順番に部屋を覗き回った。だが相手もこちらの気配を察して逃げ回っているのかなかなか見つからない。或いはとっくに店から退散しているのかもしれない。半ば諦め動作も乱雑になりかけていたその時、倉庫の中から小さな物音が聞こえた。
 霖之助はその音を聞き逃さなかった。気配を殺して扉の前に立ち、そっと手をかけると、一度深呼吸をしてから蹴破るような勢いで扉を開いた。暗く埃っぽい倉庫には似つかわしくない小柄な女性が、まるで耳元で空砲を撃たれた瑠璃雀のように跳ねてこちらを振り返った。
 そのまま両者は沈黙して睨み合った。

 初めて出会う人物であった。天人か? と霖之助は思った。整った容姿に漂う甘い香り、双髻に結った青い髪に羽衣を纏った装束は誰が見ても飛天の姿だ。天人ならば相応の礼節を以て迎えてやらなければなるまい。しかし彼女は無断で店内を嗅ぎ回った窃盗の容疑者でもある。
 どういう態度で接するべきか一瞬判断に迷った霖之助は、結果冷徹な顔をしながら穏やかな言葉をかけるというちぐはぐなことをしてしまった。
「いらっしゃいませ。ようこそ香霖堂へ。お探しの物が御座いましたらまずは店主の僕にお申し付け下さい。勝手に在庫に触れられると困ります」
「探し物……そうね、死体を探しているわ」
 女性はまるで宝石の品定めでもするような声で言った。動揺は既に無く、姿勢を正して理知的な鋭さを眼に宿らせている。
 その眼差しの中に敵意のようなものが閃いた気がして、霖之助は内心首を傾げた。見間違いだろうか。恐らくそうだろう。初対面の女性から敵意を向けられる理由が解らない。もちろん理由が無いのは自分だけで相手にはあるのかもしれない。だとすると理不尽な話だ。或いは単に開き直っているのかもしれない。不法侵入の現場を押さえられ出口も塞がれているのだ。逆上してもおかしくは無い。しかしそれにしては冷静である。
 互いの腹を探り合うような張り詰めた空気が倉庫に満ちる。
 霖之助は女性の言葉を頭の中で繰り返し、そしてはっと女性の正体に気が付いた。
 そうか、彼女はあの死体の持ち主だ。だから店内を捜索していたのか。それはそうだ。自分の持ち物が勝手に置き場所から消えていたら探しに来るのは当たり前だ。おや、もしかすると泥棒は自分の方だったのか?
「ここは道具屋ですよ。死体なんてあると思いますか?」
 それでも一応とぼけてみる。
「ええ。私は自分の持ち物にはきちんと印を付けておくんです。どこに行ったか解らなくならないようにね」
 女性は平然として答えた。成程、発信機が埋め込まれていたのなら言い逃れようがない。
「そうか。君があの僵尸の作り手か」
 霖之助は観念して微笑んだ。送尸術を使うということは天人ではなく大陸出身の道士だろう。多少砕けた口調でも構うまい。
「そうです。ならば私が何を言いたいかお解りですね?」
「言ってごらん」
「今すぐにあの子を返しなさい。そうすれば腹を立てる程度で帰ってあげましょう」
 女性は感情を籠めずに言い放った。かなり苛立っているのが解る。
「ただし、もしもあの子を傷付けたようなことがあれば……」
「傷付けただって?」
 霖之助は思わず噴き出してしまった。何を言っているのだろう彼女は。それが出来なくて一晩中徒労したというのに。あれだけの防御性能を付加しておいてなお、あの死体が傷付けられるのを恐れているというのか。大層な親心だ。過保護と言っても良いだろう。一体何処の誰があの死体を傷付けられるというのだ。
 それとも僕の技術が低すぎて、彼女が想定する最低の領域にすら達していないというのか? まったく惨め過ぎて笑えて仕方が無い。
 徹夜明けの鈍い頭も手伝って一度笑い出すとなかなか止まらなかった。流石の女性も顔色を変えた。
「何が可笑しいのです! この誘拐犯!」
「おいおい、誘拐犯は無いだろう? 僕はただ、そうだな、保護をしたんだ」
 霖之助は息を整えながら答えた。結果的には、と心の中で付け加える。女性は訝しげに眉を顰めた。理解出来ないといった顔だ。多分僕が彼女の立場でも同じような顔をするだろうなと霖之助は思った。自分でもちょっと何を言っているのか解らない。だが許してくれ。こちらは徹夜明けだ。
「考えてもみてくれ。墓場に僵尸が出たなんて噂が里に広まればあっという間に巫女に通報されて討伐されて終わりだ。大切な死体なのであれば、次からはもっと人目に付かない所に隠すといい」
 我ながらよくもまあこんな図々しい言い訳が出来たものだ。詐欺師のように口先を回すと、女性は霖之助の顔を一層疑わしそうにじっと見つめてきた。とてもまともな反応だ。どちらがまともかと道行く人に問えば誰もが彼女を指すだろう。
 霖之助は吐き捨てるように肩を落として、霞がかった頭に冷静さを呼び戻した。悪ふざけが過ぎた。多少八つ当たりの気持ちが混じっていたのかもしれない。
 女性はやがて何か口を開きかけたが、思い直したらしく咄嗟に俯いて溜息で誤魔化し、取り繕ったにしては上等の余裕を持って顔を上げた。恐らく余計な会話を拒否したのだろう。
「つまり、あの子は無事なのですね。ならば早く会わせて下さい」
「その前に一つだけ言わせてくれ」
「……何でしょうか?」
 女性の瞳から再び感情が消える。
「君の技術は凄いな」
 霖之助が言うと、彼女はヒヨコのようにきょとんと目を丸くした。

 ◇

 工房へ招き死体と対面させると、女性はようやく心から安堵したように顔を綻ばせた。
「ああ芳香。よかったわ、無事で」
 そう言って死体に駆け寄り我が子のように頭を撫でながら、あちらこちらの関節や腱を数えるように触れて回り、頷く。霖之助は作業台に寄りかかってその様子を見ていた。死体は相変わらず無反応だ。そのため女性の行動はどこか一方通行の献身のように見える。
「……うん、何ともないみたいね。着ていた服はどうしたのです?」
「洗って風呂場に干してあるよ」
「そうですか。しかしこの部屋は……」
 と女性は周囲を見渡す。
「全く何もしなかった、という訳ではなさそうですね。貴方の言う保護って何なのかしら」
「先入観を持たず、一人の死んだ人間として扱うことかな」
「呆れた。その為に鋸が必要だったの?」
「いいじゃないか。結局歯が立たなかったんだ」
 霖之助は若干投げ遣りな口調で返した。女性は困ったように首を傾げ、まるで不貞腐れた年下の恋人を宥めるように溜息を吐いた。何となく小馬鹿にされたような気がして横目で女性を睨む。死体の無事が解ったからか、女性からは最初に見た時よりもずっと穏やかな印象を受けた。
「よしか、というのか、彼女は」
 気持ちを切り替え、棒立ちの死体に目をやって訊ねる。死体は動かない。まるで戦争に負けて打ち捨てられた古い城のようだ。
「ええ」
 女性が頷く。
「きっと頭の良い子だったんだろうね」
「それはそれは評判でしたよ」
「ずっと都良香の古歌を口ずさんでいたよ」
「文芸が好きな子でしたから」
 それは是非生きているうちに会いたかったなと霖之助は思った。さぞ話が弾んだことだろう。
 良香の詩を憶えていたのは、それが自分と同じ名前の先人の残した詩だったからかもしれない。その七言句に初めて触れた時、少女は恐らく天啓にも似た大きな感銘を受けたのだ。死した後も自分の名前以上に、或いは名前代わりに唱えるほどに。名というものは思わぬ形で肉体と融和するものなのだ。
「君の名前は?」
 霖之助は女性に訊ねた。
「霍青娥です。貴方は?」
「森近霖之助だ。宜しく。よければこの後一緒にコーヒーでも飲まないかい?」
「あら。私に興味がおあり?」
 青娥は薄らと笑みを浮かべながら手慣れた様子で色目を使ってみせた。
「君にというか、君の技術に興味がある」
 霖之助は正直に答えた。
「今までに見た僵尸の中で一番頑丈だったからね。何をしたらあの柔肌にあれだけの防御性能を詰め込むことが出来るのかとても知りたい」
「そう。正直な人ね」
 青娥は目を細めてくすくすと笑った。最初に感じた敵意はもう見当たらない。少なくとも変質的誘拐犯から幼稚な技術者くらいには地位を回復したらしい。
 しばらくそうしていた後、青娥は春の予感に浮き立つ少女のような顔で微笑んだ。
「いいわ。お友達になりましょう。でもご免なさい。今日は午後から用事があるの」
「そうか。じゃあまたそのうち」
「ええ。また今度。さあ、帰りましょう。芳香」
 青娥は死体の頬を愛おしそうに撫でると、スカートを少しだけ捲り上げて太腿に帯で留めてあった呪符を一枚抜き出した。霖之助は思わず顔を突き出す。僵尸の起動をこの近距離で見られるのは貴重だ。青娥の指に挟まれた呪符を物珍しそうに目で追いながら、一枚くらい貰えないかなと思っていると、視線に気が付いた青娥がちらりと霖之助の方を向き合図のように笑みを浮かべた。
 そして呪符を死体の額へと押し付けた。
 直後、虚ろだった死体の目に光が宿り、歯車が五六本抜けたゼンマイ人形のようにガタガタと震えだして、
「うぉおぉおぉぉォう!? ぬぁんだココはぁぁぁ!?」
 素頓狂な声が響き渡った。
「……は?」
 霖之助が凍った。
「確認したのか? 確認したのかァァァ!? ききききき今日は木曜日だぁぁぁ!」
「もう、芳香ったら寝坊助さんね」
「お早うございます。私はゾンビです」
「お、おい……君……」
「なぁんだうぉまえはぁぁぁぁ! ずっ、ずんどこべろべろかァァっ! ぶえぇぇぇおぉぉぉぉ~っ!? ちぃぃかよぉぉるなぁぁぁ!」
「……」



 霖之助は殆ど無意識的に二人を見送った。帰り際、青娥がにこやかな顔をして二言三言何かを話したようだが覚えていない。
 僵尸は終始けたたましく笑っていた。
 二人の姿が見えなくなった後、霖之助は玄関の鍵を改めて掛け直し、砂が崩れるようにカウンターの椅子に腰を下ろした。棚から手探りで煙管を引っ張り出し、刻葉を丸めて一服すると、立ち昇る紫煙を追いかけてぼんやりと天井を見上げた。
 それから乾いた声で嗤った。そして急に沈黙した。血を失くした蛇のような沈黙だった。
 何だあれは?
 あれのどこに文芸を愛した少女の面影がある? 意識を失くしている方が賢いだなんてどういうことだ?
 骨の奥から一晩分の疲労感が込み上げて、それはやがて叫びようのない怒りに変わった。
 あの女は一体何のつもりだ? あれほどの改造技術を有していながら、何故彼女の脳を護らなかったのだ? 何故彼女から理知を奪った? 何故記憶を奪った? 何故生きた証を奪った? それが出来ないのであれば、何故そのまま眠らせておいてやらなかったんだ。巫山戯るな。あんなもの認めるか。死者を何だと思っている。誰かの玩具になるために彼女たちは死んだんじゃない。
 しかし一方で、僵尸としての利用方法は極めて正しいのも解る。何をしようと所詮は死者だ。機械的に働かせるならば理知などあっても邪魔なだけだ。意識が無いと確信していたからこそ、自分だってあれほど残酷な実験を繰り返すことが出来たのだ。
 実験?
 そうだ。結局自分も倫理より技術に心を奪われた。青娥の高度な施術に嫉妬した。少女の冥福なんて二の次になった。
 僕が彼女を責められる立場だろうか?
 けれど、少なくとも最初は、本当に心から少女の安息を願って火を点したのだ。本当に、最初はそうだったんだ。

 そういえば顔を洗いに行くのだったと、霖之助は席を立った。洗面台の鏡を覗くと、蛇蝎のように血走った眼付きの男が暗く佇んでいた。
 やれやれ、酷い顔だと思った。今日は誰にも会いたくない。




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                               終   20140315
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その他 | 【2014-10-06(Mon) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(5)
コメント

面白かったです
2014-04-03 木 20:14:20 | URL | #- [ 編集]

まさか青娥と芳香が出るとは!!
ちらほら伺える元ネタやにゃんにゃんの黒さが見えたりしてとても面白かったです。
次回も楽しみにしています。

それにしてもいい小説を書くなぁ…
2014-04-15 火 19:38:08 | URL | 名無し #mQop/nM. [ 編集]

前に書いてた吸血鬼と大彗星の魔法使いの続編とか書いてほしいな。カービィwiiとのクロスであめふらさんの書くマホロアを見てみたい。
ネット上でもマホロア幻想入りはまだ見たこと無いし、あめふらさんの作品はどれも素晴らしいからね。
2014-04-20 日 21:28:28 | URL | #- [ 編集]

霖之助さんの知識欲と優しさをうまく表現しててすばらしい作品でした
2014-04-29 火 00:26:17 | URL | #- [ 編集]

吾妻菊って別名ミヤコワスレって言うからこのタイトルなのかな?
2014-10-31 金 20:36:44 | URL | #- [ 編集]
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