管理人

あめふら

Author:あめふら
二次創作のお話を書いたり、書かなかったり。
リンクはご自由にどうぞ。していただけるのなら喜んで。

何かありましたらこちらまでお寄せ下さい。
amefurashi00◇gmail.com
(◇→@)


目次
最新コメント
刊行
pixivで描いた漫画をまとめました。


『OVERCOLL2』 とらのあな
booth
制作
作ったものを売っています。


『レジンフィギュア・物部ハト』 とらのあな

リンク
香霖堂奇譚 第八話  桜神(中編)
桜神(前編)の続きです。未読の方は先に前編をお読み下さい。


 遭難者が取るべき行動は二つある。一つは救援を待ってその場を動かないか、もう一つは自力で危機を脱するかだ。
 霧雨少年は後者を選んだ。里の大人たちは慧音を除いて誰も自分たちが森に入ったことを知らないのだ。黙って待っていたら夜中になってしまう。何より、森の中で一つ所に留まることは非常に危ないことのように感じた。獣や妖の跋扈する世界だ。気が付いたら四方を囲まれて、身動きが取れないなんて状況は絶対に避けたい。人間は自然の中では圧倒的な弱者なのだ。それを自覚するにつけ、少年は木陰や草葉に蠢く闇の幻を見た。
 恐れを紛らわすように霧雨少年は歩いた。ところが歩けど歩けど、里の入口は見えてこない。むしろ一層深い森に入り込んで、周囲はますます鬱蒼として暗く、ついには陽の光も傾き始めた。
「最悪だ」
 黄昏時の薄闇の中で、霧雨少年は自分にしか聞き取れないほど小さな声で呟いた。これほど歩いて何の進展も無いとは、流石に焦燥する。最早迷い始めた最初の位置さえ戻れる気がしなかった。どうして自分はせめてヘンゼルとグレーテルのように目印を残してこなかったのだろう。
「何か言った?」
 霧雨少年の手を握りしめた少女が後ろから訊ねる。
「最悪だ、って言った」
 少女は悲しそうな顔になり、花のようにしゅんと俯いてしまった。
「ごめんね……」
 自分が少年の指示を無視して後を追ってきたことを、現状の原因の一つと考えているのかもしれない。実際どうなのだろうかと霧雨少年は思ったが、それを今考えたところで意味が無いので止めた。
 少年は俯く少女を勇気付けるように頭を撫でた。暗い森の中にあって、少女の蒲公英色の髪だけが陽光のように明るく、少年にとっても多少の安心感を与える。頭を撫でられた少女は不安を残しながらも、ちょっと嬉しそうな複雑な顔をしていた。少年は少女の不器用な笑顔に多少心を解されつつ、しかし内心途方に暮れていた。
 そうなんだよなあ。こいつがいるから無茶も失敗も出来ない。人一倍気を張り詰めないといけない。何かあったら俺が守らないといけない。それは年長者の務めとして、そして男としても当たり前の事なのだけれど、もしかするとそれが空回って今の状況に陥っているのかもしれない。
 事態は好転しない。
「まあ、先生がいるんだから大丈夫だよな。あの人、迷子探しの達人だし」
 霧雨少年は自分に言い聞かせるように言った。少女も小さく頷いた。

 日はますます落ちる。闇が深まる。疲れを知らぬ子供たちにも底冷えのような疲労が溜まりつつある。
「疲れた! 休憩!」
 霧雨少年は大木を背にどっかり腰を下ろした。少女も少年の隣にちょこんと腰を下ろした。
 少年は溜息を吐き、背中に感じる木のがさがさとした質感と、幹の香りを堪能していた。森ってこんなに暗くなるのか。
「全然出口見えないな。悪い。変に歩かせちゃって」
 少女はふるふると首を横に振った。そして周囲を見渡して、小さな声で言った。
「暗くなっちゃったね」
「ああ。何時なんだろうな」
 霧雨少年は自宅にある大きな柱時計を思い出した。家を出た時はまだ昼過ぎだった。どのくらい経ったのだろうか。
「ちょっと歩き回るのは止めるぜ。暗いし、多分これ以上動いても疲れるだけだ。先生が来るのを待とう。いいか?」
「うん」
 高い所を流れる風が森の表面だけを撫でていった。影だけとなった木々が相談事をするように葉をざわめかせている。ありとあらゆる暗がりに見えない目があるような気がする。泥のような濃い緑の幻影が二人を何重にも取り巻いている。
 少女は少し不安そうな顔で、拳一つ分だけ霧雨少年の傍へ肩を寄せた。
「怖いな」
「え?」
 霧雨少年の呟きに少女は心の底から意外そうな顔で少年を見上げた。
「霧雨君でも、怖い物ってあるの?」
「あるよ。ちっぽけな人間様だぜ、俺は」
 少年は当たり前のように言った。
「世の中怖い物だらけだ。妖怪とか魔物とかもちろん怖いし、もう死んじまったけれど家の爺さんも死ぬほど怖かったな。巫女もちょっと怖い」
「そうかな。巫女様は優しいよ?」
「そりゃお前が女の子だからだろ。俺、前にあの人から子供に使っていい力じゃない強さで殴られたことあるんだよ。普段巨大怪獣とか相手取るような人が本気で拳骨打ち下ろすんだぜ? 先生の頭突きの八千倍痛いわ。死ぬかと思った」
 以来、少年は神社の中では非常に神妙になった。
 ちなみに巫女が霧雨少年を殴ったのは、彼が鳥居に登って遊んだからである。その話をすると少女は楽しそうに笑った。
「遊んじゃ駄目なところで遊んだからだよ」
「別に神社で遊ぶのは駄目じゃねえよ。ただちょっと遊び方が悪かったってだけだ」
 言いながら霧雨少年は頭の後ろで両手を組む。
「でも楽しかったな。お前さ、鳥居の上からの景色って見たこと無いだろ? すっげー遠くまで見えるんだぜ!」
「そうなの?」
「その代わり拳骨と説教だけれどな」
「それはやだ」
 と二人は顔を突き合わせて笑った。
「男の遊びに危険は付き物なんだよ。俺らは女の子と違って、お人形遊びとかおままごととかそういうのでは楽しめないからな。絶対チャンバラの方が楽しいわ。いや本当、女の子の遊びも付き合いでやったことはあるけれどさ、人形とか何が楽しいんだアレ?」
「楽しいよ。一緒に遊ぶの」
「人形と一緒に遊ぶって感覚が謎だわ」
 ぼやいていると、少女がちょっと得意顔になって言った。
「ええとね、お人形さんとかぬいぐるみさんの性格にもよるんだけれど」
「はい待て。人形の性格って何?」
「あるんだよ? 優しい子とか意地悪な子とかすぐ泣いちゃう子とか、色々」
「信じらんねえ」
「それでね、私はお人形さんを動かしてあげたり、お喋りしたり、新しい着物を作ったりするの」
「着物って人形の?」
「うん」
「訳解んねえ」
「だって綺麗なお着物きたいもん。あとは、私も一緒にお人形さんになってお買い物したり、お散歩したりするの。それは私と一緒じゃないとできないのよ」
「そりゃそうだ。人形は勝手には動かないからな」
 人形を連れ回して何が楽しいのか解らない。池で巨大蛙を掴まえる方がよっぽど楽しい。感性が違うというのはきっとこういうことを言うのだろう。
「お前、小さい服とか作るの上手そうだよな。器用だし」
 この少女には精緻を極めた折鶴を作る素晴らしい手がある。人形用の服とか作らせてみたら意外と婦女子に需要があるんじゃないだろうかと、商人の思考が囁く。不意に浮かんだその合理的な思考は、同時に一つの回答も与えてくれた。
「ああ、そうかあれか。女子はみんなそういうことやって針の腕を上げていくんだな」
 霧雨少年は納得して一人頷いた。
「裁縫とか教わるもんな」
「うん。お母さんに教わる。お嫁さんになる練習って」
「へえ。良い嫁さんになるんだろうな、お前」
「えぁ……」
 途端に少女はもじもじと俯いてしまった。霧雨少年はからかうように笑った。
「なに照れてんだよ」
「……だって……」
 と、と鬱然霧雨少年が何かの気配を察知して立ち上がった。少女も慌てて彼の手に縋り付き立ち上がった。
「どうしたの?」
 不安げな声で訊ねると、少年は黙って真正面を指さした。
 暗い森の奥から、何か柔らかな光がゆっくりと移動してきている。心なしか、自分たちの方へ近づいているようにも見える。
「先生かな?」
「いや、灯の色じゃない。白過ぎる」
 霧雨少年は緊張して激しく脈打つ打つ心臓も拭き出す汗も慌てそうな頭もとにかく必死で冷静に押さえつけて観察を続けた。
 あれは何だ? 獣の目か? 妖怪か? 人魂か? 精霊か? そしてそれはどういう性質のものだ? 見極めろ。でなければ最悪死ぬ。人間は弱いのだ。
 霧雨少年は横目でちらりと少女を見た。少女は余裕のない眼差して少年の手を痛いくらいに握りしめている。
 さあ大変だぞ。こいつがいるのだ。間違った選択は下せない。
 情報が欲しい。そして考えろ。あの光は何だ? 動いている様子だから生き物だ。元々発光する生き物か? それとも魔性の獣か? 目は良いのか? 耳は良いのか? 鼻はいいのか? 自分たちは気付かれているのか? 逃げるべきか? 留まるべきか? 逃げるとしたらどのように逃げるべきか? 留まるとしたらどのように留まるべきか?
 長い観察の末、霧雨少年は光の動きに一つの規則性を見つけた。
「あれさ、もしかして蝶じゃないか?」
「ちょうちょ?」
 言われてみれば確かに蝶がひらひらと羽ばたいているように見える。
「でも、もう真っ暗なのに?」
「じゃあ蛾か?」
 と、少年がおもむろに歩み寄ろうとするのを少女は渾身の力で引き止めた。
「危ないよ!」
「だからお前、ちょっとここで待ってろ。な?」
「やだ……」
 霧雨少年は困り果てて、出来るだけ落ち着いた声で諭すように言った。
「解るけれど、確認は必要だぜ? やばそうだったらすぐ逃げるし、平気だったらほら、明かりに使えるかもしれない」
「でもやだ……」
 少女はもう泣きそうになって訴える。
「解った。お前も来い。でもいいか? 足音を立てるなよ。良いって言うまで喋るのも駄目だぜ。いつでも全速力で走れるように準備しておけ。で、絶対に離れるな。これが守れないならここにいろ。いいな?」
 少女は必死になって頷き、霧雨少年の腕を抱き込むように掴んだ。
「おい、歩きにくい。普通に手を繋いでくれよ」
 と言われて、少女は慌てて手を取り直す。
「それじゃあ、慎重に行くぞ」
 二人は目で合図を交わして、猫のように静かに歩き出した。
 一歩一歩、不審な光に近付いて行く。その度に二人の掌に力が籠る。少し痛いが、互いにそれを顔に出してもいられない。少年が唾を飲み込むと、それが思いのほか自分の中で大きな音となって響いたので驚いた。少女が「どうしたの?」と言う代わりに顔を覗かせる。霧雨少年は「何でも無い」と首を振って答えた。
 緊張しているな、と霧雨少年は心の中で呟いた。これほど緊張したのはいつ以来だろうか。きっといつ以来でも無い。生命の危機を感じさせるほどの緊張は、未だ経験した事が無い。これを貴重な経験をしたと言って後に笑えるか、笑う術の無い骸に成り果てるかは、もう手に届くほど近いあの光にかかっている。
 光は二人のことなどまるで気にも留めていないように漂い、そして二人も光に近づくにつれ徐々に緊張を解していった。
 光の正体は、霧雨少年の見立て通り蝶だったのである。少年はほっと胸を撫で下ろして、光を手の中へ収めるように蝶を捕まえ、それから思い出したように少女に発言許可を出した。
「ほら、これ」
 と少女に手の中の蝶を見せる。大きな翅から溢れる光は、蝋燭よりも明るく瓦斯灯よりも暖かかった。二人は顔を寄せ合って、神秘的な光にしばらく見惚れていた。
「ちょうちょって光るんだ」
 少女が感心しながら言う。
「初めて見たぜ。そういう種類なのかな?」
 蝶は霧雨少年の手の中で少し翅休めをしたあと、音も無く舞うように飛び上がった。二人は自然にその光の軌跡を目で追って、そこで止まった。

 二人の目の前に女が立っていた。
 暗い黄昏の森に半分溶けたように佇んで、霧雨少年が掴まえたのと同じ光る蝶を何十匹も引き連れている。蒼白に近い髪の毛と白磁のような透明な肌が燐光に染められ、全身が柔らかな光に覆われている。森林に似つかわしくない、一目でそれと解るようなこの上等な着物を纏い、美の女神に設計されたような完璧な眼差しで、しかもあどけない少女のように二人を不思議そうに眺めていた。
 一体いつ現われたのか解らない。何の物音もしなかった。心拍音も呼吸音も聞こえない。気配はあるのに、それだけしかない。
 二人は硬直した。声も出なかった。逃げようと思っても足が動かなかった。
 いや、正確には逃げるという気も起きなかった。
 女が桁外れに美しかったからである。
 二人は子供ながらに具わっていた筈の全ての危機管理能力を上書きしてまで女に見惚れた。
 こんな綺麗な人を見たことが無い。こんな綺麗な人がいる筈が無い。女神か天女と言われた方が納得出来た。
 女は霧雨少年に囚われた蝶を指先に止まらせ、愛おしそうに翅を撫でた。蝶は二三度触角を動かしてから羽ばたき、光背のような無数の蝶と同化して光に溶けていった。
「こんなところに子供がいるなんて。どうしたのかしら?」
 女は見た目通りの美しい声で二人に優しく話しかけた。
「あ……ええっと……」
 霧雨少年がしどろもどろになっている隣で、少女が小さな声で告げた。
「迷ったの」
 と、その瞬間霧雨少年は我に返って慌てて少女の口を塞いだ。相手が何者かは解らないが、どう見たって人間じゃないのは解る。こんな綺麗な人がこんな森の中にいるものか。
 急に口を塞がれた少女は苦しそうな眼で少年に訴えた。少年は手を外して少女を引き寄せて、耳打をするように言った。
「馬鹿、会話すんな! 妖怪だったらどうする! 名前でも住所でも年齢でも何でも、妖怪には一切の個人情報を教えるなって教わったろうが!」
 少女ははっと目を見開いて絶句した。菜を教えれば囚われる。居を教えれば狙われる。齢を教えれば呪われる。妖怪とはそういうものだ。
「あら、私は妖怪じゃないわよ」
 女はまるで子供のように口を尖らせた。途端に今までの警戒が霧散して霧雨少年の胸が高鳴る。あ、これはヤバイ。滅茶苦茶可愛い。
「妖怪じゃないって言ってる」
 と、袖引く少女の声で慌てて我に帰った。
「泥棒が自分から泥棒ですとは言わないぜ」
 そう言って改めて心に壁を構築する。危ない所だった。そのまま魅了されて引き摺られる所だった。女は面白くなさそうに頬を膨らませて腕を組んだ。自然と胸が強調される。壁があっという間に崩れた。うわあ、これはヤバイ。何かそのまま引き摺られてもいいかもしれない。
 そこへ少女が少年の腕を絞るように両手で握りしめたので、また我に返った。危なかった。こいつがいなかったら俺は判断を誤るところだった。
 とりあえず、一度言葉を交わしてしまった以上後には引けない。霧雨少年は覚悟を決めて少女を庇うように背に隠し、女と向かい合った。
 女は不思議そうに目をぱちくりとさせている。畜生、可愛い。抱きしめたい。
「あー、っと……お姉さんはこんなところで何を?」
「私はね、香霖堂っていうお店に行く途中なの」
「香霖堂!?」
 二人はびっくりして顔を見合わせた。
「香霖堂って……」
「お姉さん、あの銀髪眼鏡の知り合いか?」
 訊ねると女は意外そうに目を丸くした。
「あら、貴方たちも店主さんのお友達?」
「違います」
 霧雨少年は間髪入れずに返した。女は少年の子供らしい嫉妬を見透かすようにくすくすと笑った。動作が一々綺麗な人だ。
 さて、と少年は考える。
 この女は銀髪眼鏡の知り合いで、自分たちと同じく香霖堂を目指している。まずその台詞は信用に値するか。こちらを油断させるための虚言かもしれない。しかし少年は霖之助が人間では無いことを知っている。だとすれば、どう見ても人間じゃないこのような女が知り合いにいても不思議ではない。そういえば、香霖堂には先生が来ている筈だ。まだ居るのだろうか。もう用事を済ませて帰ったのだろうか。
 どちらにせよ、何故先生は男の家に呼ばれたのか。先生は調理器具を持って行った。即ち料理をする必要があるということだ。そしてそれは男一人ではとても賄い切れないような料理を作らなければならなかったということだ。
 ひょっとして宴でも開くのか? この女はそれに招待された客だろうか? そう考えれば一応の筋は通る。女の出で立ちはいかにも身分が高そうだし、何より美人だ。全力で接待せねばならない。
 あれ? ということはあの男、この絶世美人と先生で両手に花か? なんてこった、男の夢じゃねえか!
 ってそうじゃない。あの野郎先生を何だと思っていやがるんだ? 他の女の為に、授業に割り込んでまで呼び出すって何様のつもりだ?
「……銀髪眼鏡、許すまじ……」
 霧雨少年はどす黒い声で呟いた。よし、殴ろう。顔の形が変わるまで殴ろう。
 隣の少女は殺気立った目にすっかり委縮してしまって、どうしていいか解らずべそをかく寸前で、おどおどと少年と女との顔を見比べた。
 そして少年とは対照的に慈母のような笑みを浮かべる女に対して本能的に助けを求めた。
「あの、私たちも、その、香霖堂に行くところだったの」
「まあ」
 女は心から気の毒そうな顔をして少女に近付き、ちょっと身を屈めて少女と目の高さを合わせると、慰めるように少女の頭を撫でた。
「それじゃあ、お店まで一緒に行く?」
「うん」
 と、頷いた瞬間、少女の体が人形のように倒れた。
「……は?」
 我に返った霧雨少年は慌てて女を押しのけ、蒼くなって少女を抱え起こした。
「おいどうした! おい!!」
 大声で呼びかけるも、全く反応が無い。少女は完全に意識を失っていた。意識どころか、呼吸が無い。
 血の気が引いた。
「ちょっと待てよ……嘘だろ?……ってめえ!! 何しやがった!!」
 絶叫しながら女に掴みかかる。ところが立ち上がろうとした足に全く力が入らず、少年は転がるようにその場に倒れ込んでしまった。
 地面から女を睨み上げた時、少年は始めて女の足が地面と接着していないことに気が付いた。
 女は相変わらず優しい笑みを浮かべていた。彼女の指先には小さな蝶が止まっている。
「あなたも」
 女は月光で洗われたような白い指先で霧雨少年の額に触れた。少年はただそれを見ていることしか出来なかった。
 おい、ふざけるな。何だこれ? 冗談だろ?
 怒りと焦燥と後悔が綯交ぜになった薄れゆく意識の中で、それでも少年はこの女を美しいと思った。
 なんて美しい。なんて甘い。ああ、そうか、こいつは「死」だ。
 その思考を最後に霧雨少年も息絶えた。
 女の指に止まる蝶は二匹になっていた。二人の抜け殻を残して、女は黄昏の森を音も無く滑るように消えていった。

  ◇

 丁度日が落ち切るのと同時に慧音が伸びをして叫んだ。
「終わったー!」
「間に合ったー!」
 霖之助も勝ち誇ったように拳を握りしめて叫んだ。二人の前には色とりどりの贅を尽くした料理が並び、十数箱にも及ぶ重箱を隅から隅まで埋め尽くしていた。
「あー。今までで一番疲れたかも。凄い達成感だ」
「家事って重労働だよな。いやあ助かった。ありがとう。一人じゃ絶対に間に合わなかったよ」
「どういたしまして」
 二人は笑みを交わして拳をこつんと打ち付け合った。共に困難を乗り切った戦友のような連帯感が湧き起る。
 実際この数時間の台所の攻防は戦場と呼んで差支えない修羅場だった。香霖堂に到着するや否や、慧音は珍しくエプロン姿の霖之助に出迎えられ、足を休める間もなく台所に誘導された。それから今まで延々調理である。何の為にこれほど大量の料理が必要なのか質問する間もなく指示が飛び、慧音も霖之助も引っ切り無しに手を動かした。
 そうやってようやく完成したものが今目の前に並んでいる。休憩はほぼ無し。くたくたである。これほど大量に多品に料理を作ったのは初めてだ。目が既に満腹だ。
 慧音は三角巾を取りエプロンを脱ぎながら、心地よい疲労に大きな息を吐いた。
「それじゃあ、運ぶか」
 霖之助が大皿を持ち上げながら言った。
「ん、外?」
「ああ。桜の下に毛氈を敷いているから、そこに並べてくれ」
「解った」
「くれぐれも転ばないでくれよ」
「お前もな」
 ここでひっくり返したら泣く。
 慧音も手近な重箱を持ち、入れ代わり立ち代わり厨房を出て、満開の桜の下へ次々と料理を運んでいった。猩々緋色の見るからに高価な毛氈が食器で埋め尽くされていく。
 やがて台所から全ての料理を運びだし食器を整えた頃には、辺りはもうすっかり暗くなっていた。爽やかな夜気に包まれた豪華な宴席が、所々に立てられた燈台の明かりに浮かび上がる。漆器の柔らかな光と、陶器の硬質な光がそれぞれ星のように輝き、そして頭上からは桜の花びらが儚く舞い落ちる。
 壮観である。慧音は桜を背に腰を下ろし、目の前の光景にすっかり感心して溜息を吐いた。
「お前の家、こんなに食器があったんだな。びっくりしたよ」
「古道具屋だからね。使っていないだけで色々とあるんだ」
 燈台の位置を調整しながら霖之助が答える。
「使えばいいのに。勿体無い」
「必要ないさ。何なら買うかい?」
「いいよ。間に合ってる」
 最終調整の終わった霖之助は、ようやく解放されたように胡坐を掻いた。
「よし。あとは主賓を待つだけだ」
「お疲れ様」
 と、腰を落ち着けたところで慧音がかねてからの疑問を口にした。
「それで、何なんだこの花見の席は? 忙しくて全然訊けなかったけれどさ。ただの花見じゃないんだろう?」
「ああ。とても高貴な人が来るんだ」
 霖之助が言うと、慧音は得心したように頷いた。
「なるほど、御供の人が多いのか。だからこんなに沢山の料理が必要なんだな」
「いや、一人だよ」
「一人?」
 思わず耳を疑った。
「一人っていうか、まあ、人の形をしているから一人と数えるけれど。大食いなんだよなあの人。底無しだ」
 霖之助は諦めたような声で言った。慧音は信じられないといった眼つきで料理の数々を見渡し、それが一人の人間に平らげられる様子を想像して呆然とした。これを一人で平らげる? 冗談だろう? ざっと十人前以上あるのに。
「一体誰が来るんだ? 何か、聴く限り人じゃなさそうだけれど」
「君も少なからず関わりがある人だよ」
「え? 全然心当たりが無いんだが」
 そんな大食漢は一人も知らない。少なくとも里にはいないと思う。
 霖之助は慧音を正面に見据えるよう座り直して言った。
「人の魂は蝶の形をしているって話はしただろう。君も何度か見ている筈だ」
「うん」
 慧音は頷く。かつて林の中で死体を掘り起こした時や、煙草屋の羅宇助翁の魂を導いた時にも、月色に光る大きな蝶を見た。
「その蝶の元締めみたいな人が来るんだ」
「元締め?」
 慧音は目を丸くして言葉を繰り返した。
「あの蝶って人の魂なんだよな? それを統べている人がいるってことか?」
 と言いながらこめかみに指を当てて、続ける。
「ええと、私よく知らないんだけれど、魂っていうのは、体から抜けた後に地獄とか極楽とか、そういう何か死後の世界みたいなところに行くんじゃないのか?」
「そうだよ」
「じゃあ、それの元締めって言うと……まさか、閻魔様とか?」
「いや、その前段階だ」
 霖之助は言った。
「魂を冥府に渡す前に一度回収する女王蝶だ。希国で言うタナトス。北欧で言うヴァルキリー。要するにお迎えって奴さ。死という概念の擬人像だよ」
「ちょ、ちょっと待て! お迎えが来るのか?」
 慧音は慌てふためいて言った。
「ああ」
 霖之助は事も無げに頷く。慧音は肝を潰す。
「いや、おい、冗談じゃ無いぞ!? それって死ぬってことじゃないか!」
「そうならない為にこの料理が必要だったんだよ」
「……てことは、これ、全部お供えなのか?」
「ああ」
 彼岸も過ぎたというのに、こんな豪華なお供え物を見た事が無い。慧音は驚き果てて脱力してしまった。この男は一体どんな人脈を持っているのだろう。何でそんな奴と知り合いなんだ。何というか、底が知れない。
 霖之助と知り合ってそこそこ経つ。会う度に彼の情報も少しずつ増えていった。しかしその度に新しい謎も生まれていく。彼は一体、どのような半生を歩んできたのだろうか。普通に生きていれば知らないことを多く知っている。ということは、普通じゃない人生を送ってきたということになる。それはきっと間違いないと思う。今でもそうだ。彼は好き好んで普通の人から外れた生活を送っている。私が半獣という並外れた過去を抱えているように、もしかすると彼も何か大きな過去を隠しているのかもしれない。
 考え過ぎだろうか。
「結局、誰が来るんだ?」
 慧音が訊ねる。
「さあ。名前は知らない。でも美人だよ。僕はただ『姫』と呼んでいる」
 と霖之助は遠い目をして答えた。
「姫?」
「そう。桜を好む木花知流姫」
「お迎えって女の人なのか?」
「どうだろう。正確な所は解らない。僕には女性に見えるというだけだよ。死にどういう形を与えるかは、結局のところ信仰による。光背を背負った仏も、鎌を持った髑髏も、やっていることは同じだ」
「んー、言われてみればそうかな。連れて行く先が違うだけなのか」
 少し沈黙を挟んだ後、慧音が続けて問う。
「一体、そんな存在とどこで知り合ったんだ?」
「どこで、と訊かれたら、ここでだ」
 言いながら霖之助は頭上の桜を見上げた。慧音も合わせて上を向く。灯に照らされた桜の枝に、夜空の星が透けている。
「ここで?」
「ああ」
「この桜の下?」
「そう」
 慧音は物珍しそうに木の根元を見回した。
「何で?」
「あー……」
 珍しく霖之助が言い淀んだ。
「いや、言いにくいことであれば別にいいんだ」
 慧音は慌てて打ち消すように手を振った。
「最初は知り合うつもりはなかったんだよ」
 霖之助は慧音を無視して言った。慧音は一瞬面食らったが、すぐに気を取り直して大人しく次の言葉を待った。
「もうどのくらい前かな。この桜を柱にして霊送りみたいなことをしたことがあるんだ」
「霊送りって……」
 慧音は慎重に言葉を選んで訊ねた。
「その、誰か、亡くなったのか?」
「いや、人じゃない。服を送ったんだ」
「服? 服の葬式ってこと? それって針供養みたいなものか?」
「まあ、そんな感じ」
「へえ」
 そういえば霖之助の職業は古道具屋だ。道具の中にはもう古道具としても売れなくなったものもあるだろう。そうした道具の最期を看取ることも彼の仕事の内なのかもしれない。
「それで?」
「供養っていうのは、そのものに宿った霊性を可能な限り浄化して冥界に渡すことだ。だから、僕には全くその意識は無かったんだが、結果的に冥界の主にその服を献上する形になったんだよな。そしてそれがなまじ貴重品だったものだから、お姫様はすっかり気を良くしてしまって、畏れ多くも直接お礼を言いに来てくれた」
 慧音はあっけに取られて口をぽかんと開けた。そういうことってあるのか?
「何か……凄いな」
「うん。僕も相当驚いた。もうどうしていいか解らなかったよ。相手は物凄く位の高い亡霊だ。ちょっとでも粗相をすればその瞬間に殺されると思った」
 霖之助は懐かしそうに続ける。
「でも、これはまたとない好機だと思った。これほど鮮やかな形を持った死と向き合える機会なんてそう無いからね。これを逃す手は無いと思った。死を司る者と仲良くなれば、死に対する強烈な守護になりうる。あらゆる死を恐怖する必要がなくなる。それは疑似的な不死身ですらある」
「お前……いくら何でも無謀だと思わなかったのか?」
 慧音は心から呆れる。
「まあ、本当のことを言うと、それ以外に方法が無かったんだ」
 霖之助は諦めたように笑った。
「そう思わないとやっていられなかったんだよ。だって死そのものを相手にしてどうしろっていうんだ? 出来るだけご機嫌を取って帰ってもらうしか無いじゃないか。だから最善を尽くしたよ。全身全霊で接待した。幸い、その人がまた桜が大好きな人でさ。咄嗟に花見の席を設けたらとても喜んでくれた。まあ今にして思えばかなり質素な物だったけれどね。でもそのお蔭で僕は無事生き延びることが出来た」
「はあ」
「ところが、彼女がその花見をすっかり気に入るようになってしまったんだ」
 霖之助は溜息交じりに言った。
「……まあ、沢山豪華な贈り物をされて、お礼を言いに行ったらそれ以上にもてなされてだから、確かに気に入られるかもな」
 死の権化とはいえ、人間とそれほど感性は変わらないのかもしれないなと思った。あるいはそれも信仰に因るのかもしれない。生者が死者を慰める時、このようにすれば喜んでくれるのではないかと願えば、死者はそれに応えてくれるものなのかもしれない。
「それ以来、桜の季節になると彼女はここに現われる。毎年来るわけじゃない。来たり来なかったり、気紛れだけれど、とりあえず良い関係を続けられている。なかなか神経は遣うけれどね」
 と霖之助は笑った。なるほど、彼の持つ魂の知識はそうした交流の中で彼女から授けられたものなのだろう。
 しかし今日の彼はよく笑う。面倒臭そうな口を利きながら、意外とその姫と会うことを楽しみにしているのかもしれない。慧音は少し気まずさを覚えた。織姫と彦星のように、数年に一度桜の時期にだけ顔を合わせるという男女の間へ私が入っていいものかどうか。
「なあ、私はこの場に居ていいのか? お邪魔じゃないか?」
「もちろんだとも。いざとなったら道連れに」
「おい!」
「冗談だよ」
「当たり前だ、全く!」
 慧音はこれ見よがしに腕を組んだ。霖之助は変わらず笑みを浮かべながら言った。
「いや、でも今日は本当に助かった。今年は来ないと思っていたんだ。なのに昼近くになって急に便りが来たものだから焦ったよ。君がいて良かった」
「どういたしまして。何だか今日のお前は素直だな。むず痒いよ」
「何を言う。僕はいつだって素直で正直で善良だよ」
「嘘付け」
 慧音は楽しそうに笑った。

 森から優しい風が吹いてきた。いかにも春の夜を体現した透明な暖かい風だ。まるで森があくびをしているようだった。
 燈台の蝋燭がちりちりと鳴り、吹き散らされた桜が自らの死に気が付かないまま沈んでいった。
 しばらくのんびりと夜風にあたっていると、やがて霖之助が小さな声で言った。
「来た」
 慧音は反射的に姿勢を正し、霖之助の視線の先をじっと見つめた。
 夜の闇の中で、銀色に光る大きな蝶が音も無く羽ばたいていた。翅が動く度に飛沫のような燐光が微かに迸る。よく見るとその光の一粒一粒も小さな蝶であった。



後編へ続く)
香霖堂奇譚 | 【2013-06-09(Sun) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(2)
コメント

すごくおもしろいです!
続きを楽しみにしています
2013-06-26 水 21:00:46 | URL | #vTY6HFxA [ 編集]

続編楽しみにしてます
2013-08-19 月 08:29:28 | URL | #- [ 編集]
コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する