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くおんにねむる 二十一、二十二
前回からの続きです。未読の方は先に前話をお読み下さい。


  二十一


 氷雨が憮然とした顔で廊下を歩いている。
 ここもだ。ああ、ここもか。また扉の封印が破られている。今日だけで何度封印を張り直しただろう。しかも張り直しても次に見た時にはまた破られている。もともと剥がしやすいように作ってはあるのだけれど、他人の手で勝手に剥がされては迷惑極まりない。おかげで必要以上に見回りを増やさなければならないし、封印すべき扉の輪番も狂う。
 誰かが意図的に邪魔をしているのだ。誰か。時雨ならば出来るだろう。けれどあの子にそんな度胸は無い。とすればやはりあの男だ。一度だけ見た銀髪金眼のあの男。奴は今どこに居るのだろう。眠ノ宮を回りながら、氷雨は静かな苛立ちを覚えていた。
 別に自分が手をかけるまでも無く、放っておけば狭間に呑まれて死ぬだろう。しかしそれには時間がかかりすぎる。死ぬよりも先に、あるいは死んでからでも奴は宮中の扉を解放して回るかもしれない。こうしている間にもきっと奴はどこかの封印を開けている。扉の一枚くらいならばどうということはない。しかし片端から開けられるとなると無視は出来ない。
 扉そのものが壊されているのではないのだから、おとなしく封印を施し直せばいいだけなのかもしれない。だがそんな鼬ごっこは御免だ。元を絶った方が早い。今は小さな問題でも、後に大きな障害となって立ちはだかる可能性もある。悪い芽は吹かぬ内に切らねばならない。折角多量の柊を請け負えそうな人材を見つけたのだ。こんな小事に力を注ぎたくはない。
 ああ、また扉が開けられている。探そうと思えば見つからず、気が付けば扉の鍵は外されている。まるで空気を相手にしているようだ。氷雨は溜息を吐いた。自分の中にこれほどの苛立ちがまだ残っていたのかと驚きさえした。最後に苛立ちを覚えたのはいつのことだっただろうか。思い出そうとしたが即座に時間の無駄と悟り止めた。

 氷雨は扉を一つ一つ確認しながら、あるものは鍵を開け、あるものは鍵を閉め、またあるものには封印を張り、あるものからは封印を剥がした。そうして屋敷の一階にある全ての扉を検めると、続けて二階へと渡る。
 御簾のある座敷へ来た時、いきなり件の男と遭遇した。男は御簾の中で悠々と布団に胡坐をかき、書物を紐解いていた。
「その御簾から出なさい」
「待っていたよ。遅かったじゃないか」
 霖之助は顔を上げた。鋭い顔付きの氷雨とは反対に霖之助は自然体だ。御簾を挟んで二人が対峙する。張り詰めた沈黙が交錯した。
「その御簾から出なさい」
「いやあ、せっかく開けた壁の穴も無かったし、折れた柵も戻っていたから、この屋敷が日によって微妙に状態を変えることは早くから気付いていたんだけれど、まさか書物の状態まで変わっているとは思わなかった」
 彼の手には更紗模様の手記が握られている。手記は以前手にした時のような風化寸前のそれではなく、まるで新品のような状態で収まっている。
「巫女に刻まれし柊は」
 霖之助がうきうきとした声で手記を読み上げる。
「余程深いものだつたのだらうか。狭間の広がりは収まらず、眠ノ宮を以てしても抑え切れぬかもしれぬ。我が身も半ば狭間へと取り込まれ、忌目に囚はれ、破戒から幾日を経てゐるのかも明瞭とせぬ。残りしは幼き鎮女達のみとなる。哀れとは思ふが、氷雨に最期の咎打ちを申し付く。決して狭間を外に広げてはならぬ。今思へば、あの男の耳に響石があつたやうに思ふ。あの者は鏡華の忌子だつたのかも知れぬ。下界より立ち戻つたのだらうか。だとすれば、雨音の親兄と言ふことになる。哀れなことだ」
 氷雨は繊月のような視線の切先を霖之助に向けている。
「氷雨っていうのは腹心の男か何かかと思っていたんだけれど、君だな?」
「その御簾から出なさい」
「何故だい? ここにいた夜舟刀自はとっくに死んでいるんだろう? 君も気にせず入ってくればいい。主の無いまま朽ち果てるよりか、例え見知らぬ男でも使ってくれた方が御簾も喜ぶと思うよ」
「その御簾から出なさい」
「解らないことがあるんだ。教えてくれたら出てもいい」
 沈黙を挟んで氷雨が答えた。
「利の無い取引はしないわ」
「そうだな、じゃあ情報を一つ加えよう。久世雨音の消息を知りたくはないか?」
「知る必要が無い」
 おや、と霖之助は思った。確実に食らいついてくると予測した餌なのだが、こちらが肩透かしを食らってしまった。しかしそれを表情に出さずに霖之助は続ける。
「何故だい?」
「知っているから」
「会ったのか?」
「会うわけ無いわ」
「なら何故知っている?」
「雨音は死んでいるからよ。私は臨終に立ち会ったし、埋める所も見たもの」
「本当に?」
「ええ」
 霖之助は頭を捻った。
 久世雨音は死んでいる? しかも消息不明でそのまま死亡扱いになったのではなく、きちんと死体が確認されて埋葬までされている? ならば、博麗神社で臥せっているという久世雨音は何だ?
 ひょっとすると自らの死に気付いていない亡霊なのか? 血まみれで現れたというのも、自身の死のイメージが無意識に張り付いていたためなのだろうか? しかし仮に亡霊だとすれば何故霊夢が気付かない?
「一応、掘り起こして確認した方がいいよ」
「気になるのなら貴方がやればいい」
「それもそうだ」
「話は終わりね」
「いいやまだだ。まず狭間とは何だ?」
 次の瞬間、氷雨の姿が消えた。
 一瞬の判断の末、霖之助は振り向くと同時に体を捻り、背中から槍のように打ち出された杭を躱した。
 零時間移動! まさか霊夢以外にも出来る者がいたとは! 驚嘆しつつも霖之助は冷静に伸びきった氷雨の腕を取り、体重をかけて布団の上に組み伏せた。氷雨が目を丸くする。完全な不意打ちを躱されたのだ。一瞬何が起こったのか解らない風だった。
 種明かしをすれば、氷雨の攻撃は不意打ちではなかったのである。霖之助はひたすらこの一撃を誘っていたのだ。封印を破り歩いていたのも、氷雨の敵意を煽るための手段だった。そうと知らぬ氷雨は悔しそうに顔を赤くして暴れたが、体格差のある男に本気で押し倒されては何も出来ない。霖之助はというと氷雨の左手に握られた杭を見てにやりと笑みを浮かべていた。
 ようやく捉えた。この確証が欲しかった。間違いない、これは『刺青木』だ!
 氷雨は抵抗を諦め、せめて視線だけを激しく、血に飢えた雷鳥のように引き絞りながら霖之助に向けた。
「いいのかい? 御簾に入ってきて」
 霖之助が余裕たっぷりに言った。
「貴方に甘えたわ」
 氷雨も負けじと言った。会話に集中させて意識を逸らすつもりだ。当然霖之助は予想している。
「そうか。さて話の途中だったね」
「話を続ける理由は無いわ。説明する義理もね」
「そう邪険にしないでくれ。僕は今情報に飢えているんだ。解らないことだらけで困っている。そして君は身動きが取れずに困っている。もし君が僕の疑問に答えてくれるなら直ぐに解放してあげよう。どうだい? お互いに良いこと尽くめだ」
「なら私からもいい?」
「なんだい?」
「貴方封印の意味は知っている?」
「もちろん」
「じゃあ勝手に開けられたら困るというのは解るわね?」
「それが不思議だった」
 霖之助が続ける。
「毎日毎日違う扉を開けたり閉めたり。しかもいかにも一時的で扉の先にだって別の道から回り込める。ということはあれは扉の先の空間を封鎖するのではなく、日によって通れる道を変えるのが目的だね? どうしてそんなことをしているんだい? 僕の為か?」
「まさか」
 氷雨が鼻で嗤う。
「だよね。僕なら扉は開けられる。じゃあ何のためだろうか? きっとこの屋敷にも関係があるよね。つまり久世家にだ。聞けばこの屋敷、今や化物屋敷らしいじゃないか。そうすると僕はサラ・ウィンチェスターの話を思い出すんだ」
「誰よ」
「彼女は連射式ライフルの販売で富を得たウィリアム・ウィンチェスターの夫人でね。夫の売り出したライフルによって生まれた膨大な数の死者の怨念から逃れる為に、霊を惑わす巨大な迷路のような屋敷を作ったんだ。三十八年間ひっきりなしに増設を続けて、使用人ですら見取り図が無ければ外に出られなかったらしい」
 と霖之助は微笑む。
「つまり、君がやっているのはそういうことだ。毎日休まず迷路を作っているんだ。屋敷がこんなボロボロになってまで、いやあ立派だ。感心するよ。本当さ。一体久世家は何をしたんだい? どれほどの死者を出したんだい? 君たちはどんな儀式をしていたんだ? そこで巫女に何をしていた? 刺青木をどう使った? 柊とは何だ? 狭間とは何だ? 破戒とは何を指す?」
 氷雨は溜息を吐きながら顔を逸らした。
「貴方と話すと疲れるわ」
「ああ、すまない。結構夢中になる性質なんだ」
「私は怒っているのよ。まして久世の秘儀をそう簡単に教えると思う?」
「そこを何とかお願い出来ないかな。別に悪用する訳じゃない。正しい知識を得たいだけさ。場合によっては協力出来るかもしれない」
「協力?」
 氷雨の声色が変わった。座敷に戦慄する氷の沈黙が降りてきた。
「散々私の邪魔をした貴方が協力?」
「ああ。だから教えてくれ」
「まずは放して。痛いわ」
「そのままでも話せるだろう」
「話す気分にならないわ」
「解った」
 霖之助が手を放すと、氷雨は布団の上に座り直し、刺青木と槌を傍らに置いて、不機嫌な顔で手首を回したり髪を整えたりしていた。
 そして突然霖之助の腿に針を突き刺した。
 今度は間違い無く不意を突かれた。彼女の攻撃手段は刺青木を用いた刺突だけだと思っていた。怯んだ一瞬の隙に二本目の針が右手を貫通した。血は出ないが堪らなく痛い。的確に痛点を貫かれたのか、それとも。

 名称『刺魂の針』、用途『柊を刻む』。

 この針もただの針ではない。霖之助は太腿に刺さった針を引き抜きながら御簾を出て距離を取った。幸い足は動く。布団の上から氷雨の姿が消えた。左に回り込まれる。咄嗟に躱す。距離を保ったまま睨み合う。霖之助は細く息を吐きながら右手に刺さった針を抜いた。長い針だ。皮膚の内側でするすると抜かれていく感覚がいつまでも残った。涙が出そうだが堪える。ちらりと右手を確認すると針の穴を中心にぼんやりと青く染まっていた。毒でも塗られていなければよいが。
「巫女の間では針を武器にするのが流行っているのかい?」
「私の他にもいるの?」
「ああ、身近にね。しかもその子は凄いぞ。投げるからな」
「それでちゃんと刺さるのかしら」
「深々と」
 氷雨の姿が消え真正面に現れる。霖之助は反射的に蹴り飛ばそうとし、止める。傷つけることが目的じゃない。攻撃を避けながらそれでもしっかり足をかけ、氷雨は大きく体勢を崩す。しかし彼女は転ばず、そのまま宙に浮かんで身を翻した。
 ああ、やっぱり飛べるのか。
 霖之助は氷雨に背を向けて駆け出した。氷雨には近接攻撃しか手段が無い。零時間移動も霊夢のそれよりずっと遅い。センスはあるのかもしれないが、それでも戦闘経験はかなり乏しいと見た。荒事に向かない自分でも対応が余裕で間に合うのが何よりの証明だ。それに回避が間に合わなくても、どうせ一撃必殺の威力は無い。刺青木の方は解らないが、少なくともあの針はそうだ。勿論、だからといって死ぬ程度では無い痛みを喰らい続けるのも御免だ。
 朝になれば傷は消えるのだから、ヤマアラシになることを覚悟で真向から対峙するのも選択肢の一つだろう。しかし目覚めてリセットされると確実に言いきれるのは外傷だけだ。呪具で付けられた霊的損傷は目覚めても果たして治るかどうか確証が無い。むしろ夢の中は魂が剥き出しの状態なのだから、危険度はそちらの方が高い。
 剥き出しの魂に刺青木が打ち込まれたらどうなるのだろう。あれほど自信ありげに打ち出すのだ。恐らく刺青木は魂すら貫通する。魂の傷は肉体の傷よりも治りにくい。下手をすれば死に至るだろう。実際、氷雨は自分を殺すつもりで武器でもないあの杭を振るっているはずだ。
 氷雨が飛び込むように距離を詰め刺青木を打ち付ける。霖之助が躱す。
「余裕じゃない」
「そうでもないさ。結構必死だよ」
 霖之助が笑いながら答える。
「ならもう少し必死な顔をしてほしいものね」
「すまないね。ちょっと嬉しくてさ」
 氷雨が動きを止め、呆れながら言った。
「女の子に襲われて喜ぶ性質とは思わなかったわ」
「そうじゃない。君が情報をくれたことだ。ありがとう。やっぱり会う価値はあったな」
「は?」
 氷雨は瞬間的に頭を回転させ、自分の発言や行動の中に彼にとって利になるような情報が含まれていたか洗い直した。
 雨音の最期だろうか? 他に思いつかない。だが関係が解らない。あの男にとって雨音は何だというのだ? 子孫? そんなわけ無い。十を見ずして死んだ彼女に子などいるか。親戚筋の末裔? 違う。彼女の兄も死んだ。大体親戚だとすれば久世の血縁ということになる。あり得ない。久世の血は絶えている。
 こいつは何だ? 魔術の素養があるから少なくとも素人では無い。死人を追いかけ勝手に迷い込んだいつもの客と違うのも確かだ。
 氷雨が考え込んだその隙に、霖之助は囲炉裏の間へと続く回廊の扉へ向けて駆けだした。我に返った氷雨は慌てて彼の後を追い、だが間に合わず目の前で扉を閉められた。開けようと手をかけて驚愕する。扉が壁に接着してピクリとも動かない。まさかと思った。
 封印を張られた! 恐らく扉を開けて回りながら、人形をいくつか回収していたのだろう。それを再利用して向こう側から扉を閉じたのだ。解呪を試みたが駄目だった。人形に掛けられた術式がご丁寧に別の式で上書きされている。裏側からは外せない。氷雨は思わず唸った。
 だが囲炉裏の間へと通じる扉はここだけではない。氷雨は扉へ背を向けると大急ぎで廊下へ飛び出し、階段を文字通り飛び下りた。仕切られた部屋を最短距離で駆け抜け、土間廊下から囲炉裏の間へと通じる扉に強く手をかけた。しかし扉は開かない。
 ここにも封印!?
 唖然としつつ氷雨は考える。囲炉裏の間には扉が四つある。内二つはあの男に中から封印されている。布団の間へと抜ける為の割り笹竜胆の鍵は鍵束の中にある。座敷のある広間へ通じる大扉は外から鍵を掛けている。つまり今、囲炉裏の間は密室になっているのだ。籠城でもするつもりだろうか? 一体何の利点がある?
 と氷雨は顔を上げ、来た道を再び御簾のある座敷まで戻る。もしや自分が回り込もうと一階に降りた隙に、二階の封印を外してそこから抜け出たのではないか? しかし封印は相変わらず張られたままだった。ならば逆にこの隙に一階から? いや、そんなことを繰り返してはそれこそ思う壺だ。
 だが本当に彼はどうするのだろう? 本気で立て籠もるつもりか? 何の為に? 何の理由も無しにそんなことはせぬだろう。氷雨は念のため鍵束を確認した。割り笹竜胆の鍵は確かにここにある。ならば少なくとも扉の一つは開かない。大扉はどうか。掛け金式の単純な鍵だ。中から開けられることは無いと思うが……。
 氷雨は階段廊下に出ると、廊下の端にある戸から屋根の上へと出て、そのまま墓のある中庭へと飛び下りた。さとりを通した丸窓のある玄関から鐘の廊下を右に曲がり、座敷のある大きな広間へとやってくる。土間と座敷と書庫と廊下を全て一つの空間にまとめて壁を取り払ったかのような不自然に広い部屋だ。その一角にはやはり不釣り合いに大きい両開きの扉があった。この扉が囲炉裏の間と繋がっている。
 鍵はかかっていた。
 氷雨は急いだせいで乱れた息を軽く整えてから、中の様子を探るように扉に耳を当ててみる。音はしない。気配もない。あの男はどうしたのだろう。或いはすでに封印を外し、囲炉裏の間から姿を消しているのかもしれない。
 鍵を外し、そっと扉を押しあけて中を窺う。
「はい、お疲れ」
「きゃ!?」
 扉の陰から不意に手を掴まれ、囲炉裏の間へと引きずり込まれた。咄嗟に受け身も取れずに転び、霖之助はその隙に開いたばかりの扉から出て行った。慌てて追おうとした瞬間、扉の向こうからガチャンと錠の下りる無慈悲な音が聞こえた。
 氷雨はしばらく扉の前で沈黙した。囲炉裏の間を見渡すと、扉という扉に男の残した封印が施されていた。氷雨は扉を見つめ、やがて唸るような鋭い溜息を吐いた。
 出し抜かれた! 悔しい!



  二十二


 扉の反対側で霖之助は一息ついていた。囲炉裏の間の扉には全て内から封印を残してきた。そこそこの時間稼ぎにはなるだろう。刺された右手の甲をさすると、触れる度じんわりと水を飲むように痛んだ。丁度いい。他人から付けられた傷は朝になると治るのかどうか試してみよう。
 霖之助の得た情報というのはこの傷を付けた「刺魂の針」の存在だ。今までは刺青木は魂の加工に必要な道具という仮説を立てていた。肌に刺青を彫るように魂を彫刻するのではないか? しかし刺魂の針の登場でその仮説は消えた。名称にしても形状にしても、あれこそ正に刺青針だ。魂に刺青を彫るのは刺青木ではなく刺魂の針だ。とすると自然「柊」が何を示すのか解ってくる。刺青だ。
 刺青は人類の黎明より伝わる消えない化粧である。化粧とは化け粧うこと。肉体的な変化を伴わず、心を変質させる魔術だ。役割は仮面と同じで、見た目を変えることで己が己でなくなり、仮面と同化し憑坐となった体へ神が降りてくる。しかし仮面と異なり、刺青は消えない。とすればこれは一時的な装置では無く恒久的な「契約」だ。刺青を刻まれた巫女は生涯神のものとなる。久世家の行っていた儀式というのは恐らくこれだろう。
 だが疑問が残る。更紗模様の手記によれば、巫女の体に刺青を彫り過ぎたために久世家は大変なことになったらしい。一体どういうことだろうか? 刺青の効果が想像以上で、神と巫女との結合が強固になりすぎた? それの何が悪い。もともとそういう目的で刺青を施したのだ。むしろ好ましい。巫女イコール神となったとして望むところだ。或いは神の力に巫女が耐えられなかった? だとしても巫女が死ぬだけだ。追加して災厄は起こり得ないのではないか。
 そこで気になるのが「狭間」だ。夜舟刀自は手記の中で狭間を屋敷の外へ広げないよう強く訴えている。そこからまず、狭間とは「善く無いもの」であることが解る。またそれが何も手を打たなければ徐々に世界を侵食する毒のようなものであることも推測出来る。
 つまり狭間とは「病」だ。狭間に侵された人間は、夜舟自身がそうであったように、文字通り生と死の狭間に揺らぐこととなる。「忌目」とは決定された死の予兆、病の兆候だろう。屋敷は当時不治の病が蔓延するという救いようのない状況にあったのだ。
 それが原因で久世家は、もしかすると久世ノ宮のあった集落ごと没したのかもしれない。いずれにせよ大量の死者を出した。
 そして狭間を引き起こしたもの、或いは引き起こすきっかけとなった出来事が「破戒」だ。破戒とは通常僧侶が禁忌を犯すことだが、この場合は契約が破られたことを指すのだろう。巫女の刺青が深かった、つまり神との契約が密であっただけ余計に跳ね返りが強かったのだ。
 ということは、狭間は罰だ。神イコール巫女を正しく扱わなかったことに対する無差別的な神罰だ。詳細は不明だから無差別というのは言い過ぎかもしれない。しかし屋敷が滅び去って久しい今でもなお管理者が必要なくらいだ。その爪痕は相当激しかったに違いない。
 なぜ神はそこまで荒ぶったのか? 何をして神をそこまで荒ぶらせてしまったのか? 久世の神とは何だ? そして結局のところ、刺青木は何のために使うのだ?
 用途『巫女を穿つ』。巫女は神との契約者。時に神そのもの。神を穿つ? 穿ってどうする。巫女殺しどころか神殺し? 全く穏やかじゃない。或いは神の領域まで達しなかった出来損ない、または暴走した巫女を処分する手段? 存外ありえそうだ。しかし、だとすれば今の屋敷の惨状は何だ? 氷雨といういかにも館の主らしい少女は、何の対策も講じていないのだろうか? そんな筈はない。あの封印を見る限り、実際対策はしているのだ。した上でこの有様なのだ。
 とすると刺青木は現状に全く影響しない。少なくとも打破するほどの力は籠めていないということになる。だからと言って完全に魔力の枯渇した無用の長物という訳でも無いのは確かだ。なにせ自分はこの刺青木に影響されて、幻想郷から隔絶されたこの夢の屋敷へ来ているのだから。氷雨は間違いなく自分を殺すつもりで刺青木を振るったのだから。

 霖之助は扉を振り返り、動作のついでに肩を回すと、もう一度扉を振り返った。
 ともあれ、ようやく新しい部屋に来ることが出来た。土間から座敷に上り込み、広い空間をぐるりと見渡す。霖之助はこの座敷のある広間を何と分類するべきか迷った。
 炊事場のような一画があると思えば、火鉢を据えた座敷があり、手摺を付け忘れたのか天井を付け忘れたのか解らない半端な高さの物置がある。物置の下は板の間と隣接しただだっ広い畳の間になっていて、その奥へ直角に曲がりくねった廊下が続いている。元はそれぞれ独立していた部屋を、無理に壁を取り払って乱暴に大広間へ改築したみたいだ。しかしそれにしては工事の跡が無い。
 この屋敷全体に言えることだが、作るべくして作った部屋という感じがしない。どこもかしこも行き場を失くした部屋の欠片の吹き溜まりのような空間だ。一つ一つは整然としているだけに全体としては余計にちぐはぐな印象を受ける。
 霖之助は部屋の大雑把な間取りを確認すると階段箪笥で物置へ上り、整然と置かれていた抽斗や棚をぐるりと検めて回った。相変わらずどれも使われなくなって久しいようだ。氷雨はきっと広い館のうち必要な部分しか掃除をしないのだろう。あるいは全くしないのかもしれない。ここまで荒れてしまえば掃除などしてもしなくても同じだ。しかし全く掃除されていないにしては埃の積もり方が優しすぎる。下手をすると香霖堂の方が不衛生に思われるかもしれない。この屋敷は不潔というよりか、万遍なく平等に朽ちているのだ。個人的にはこの適度な荒れ果て具合は馴染みがあって結構だ。
 奥の抽斗を開けた時、中から奇妙な包みを見つけた。広げてみるとそれは血の付いた着物であり、一冊の薄い本が隠されるように包まれていた。着物を畳み直して仕舞った後、本を紐解く。署名は「柏木秋人」とある。掠れた肩書には「大学」という文字が読み取れる。学者だろうか?

  この神社に入り、半月が経とうとしてゐる。
  外の雪はまだ降り続ひてゐる。この雪が解けると、鏡華とも別れ、恐らく、もう戻れなゐのだらう。
  男の居らぬ屋敷である。いざとならば逃げることはできやうが、叶ふことなら、鏡華を連れて行きたい。
  そう思う心が、私を此処に引きとめてゐる。
  時折、近くの集落から参拝者らしき人々が来る。矢張り、全ての人々が顔を隠し、社の奥に向かって行く。
  今日の参拝者は女性らしく、子供ほどの大きさの袋を抱え、泣いてゐるやうに見えた。
  そして、あの「鎮メ唄」が聞こえてくる。「儀式」とは、葬送、山送りのやうなものなのだらうか。

 霖之助はその場に腰を下ろし、胡坐の上に本を広げて考え込んだ。
 これはどうやら、まだ久世家が健在だった当時、社を調査にやってきた民俗学者の手記らしい。しかも学者は久世ノ宮で行われている儀式について興味を示している。これは重要な資料だ。
 柏木秋人は久世家の儀式を葬送儀礼の類ではないかと推察している。とすると「鎮メ唄」というのは死者の霊を慰める鎮魂歌だろうか。
 葬送だと?
 霖之助は低く唸る。久世ノ宮で行われる儀式は、神を迎える為に巫女を加工することだと仮説を立てたばかりだ。そしてそれは病魔を退けるためであろうとぼんやり想定していた。だから霊威が反転した時病が流行したのだろうと納得もしていた。つまり自分は久世ノ宮の儀式を「あちら側からこちら側へ神を呼び込む行為」と考えていた。しかし実際に当時の久世ノ宮の調査にあたった柏木秋人は、儀式を葬送、あるいは山送りではないかとしている。葬送というのは「こちら側からあちら側へ死者を送り出す行為」だ。やっていることが真逆である。
 どういうことだ? 自分の仮説が間違っていたのだろうか?
 その可能性は十分にある。情報の信憑性から言えば柏木秋人の方が確かだろう。なにせ彼は現実に久世家の人間と話をしている。それどころかそのうちの一人と相当深い仲になっている。
 鏡華という名は御簾のある座敷で読んだ更紗模様の手記にもあった。彼は調査を進めていく中で彼女と通じ合うようになったのだろう。或いは調査目的で鏡華に近付いたのかもしれない。余所者の学者が地元の情報を得るためには、その土地の異性と恋仲になるのが一番手取り早いからだ。
 鏡華は恐らく久世家の跡目だったのだろう。即ち夜舟刀自の娘だ。久世の儀式を調べる上で、取り入るのには実に都合がいい。閉鎖的な集落の中で、外からやってきた学者の存在は少女にとって驚くほどの新鮮さと憧れを抱かせたに違いない。そして柏木秋人の方も鏡華をただの調査対象と見ることが出来なくなった。久世の女として生涯を終えることを運命付けられていた鏡華を、何とかして解放したいと燃え上がった。きっと彼も若かったのだ。彼女を連れて出奔を計ろうとするくらいだ。もしかすると、お互いに初めての本当の恋だったのかもしれない。
 しかし、霖之助はこの手記が包まれていた血の付いた着物を思い出した。あれは男物の着物だ。きっと事態は最も悲しい形で潰えたに違いない。霖之助はやるせない気持ちで溜息をつき、頭を切り替える。過去の悲恋に浸っている余裕は無いのだ。
 もし久世家で行われている儀式が、柏木秋人の言う通りに葬送儀礼であるのなら、刺魂の針や刺青木はどういう場面で使われたのだろう。死体に刺青を彫る死化粧の文化があったのなら、刺魂の針に対する説明は一応つく。葬送の目的は死者を正しく彼岸へ送り届けること。生者との線引きを正し、明確な棲み分けを成すこと。死者へ刺青を彫るのは、もしそうだとすればの話だが、黄泉の国へ入るための入国手形、通過儀礼のようなものだろうか。
 では巫女は? どこで巫女が必要になるのだ? 巫女は神と人との間を獲り成す為に存在する。死者を送るという一方通行の葬送において、巫女の役目は殆どないし、まして穿たれる理由も無い。『巫女を穿つ』という刺青木の存在意義が全く解らない。
 なのになぜ巫女は穿たれなければならない? 或いは柏木秋人が言及している「儀式」と、自分が探る「儀式」とは違うものなのだろうか? 儀式は複数存在する? いや、そうではない。更紗模様の手記の内容を思い出せば、そもそも柊イコール刺青を彫られているのは死者では無く巫女ではないか。

 考え込んでいると、不意に階下から物音がした。まさか氷雨がもう封印を破ったのだろうか。顔を突き出し、慎重に階下を窺う。音は土間の低い位置から聞こえた。物陰の豹のようにじっと息を殺していると、やがて巾木の一部が跳ね上げ窓のように持ちあがり、そこから這い出るようにして少女が姿を現した。
 見覚えのない少女であった。氷雨と同じ装束をしていたが、髪は首が隠れる程度の長さしかないし、何より纏っている雰囲気が全く違った。少女はおどおどと、狼の縄張りの只中に置き去りにされた仔兎のように不安な表情で周囲を警戒し、そして困惑しているようであった。何故自分がこんな場所にいるのか理解が出来ないといった顔だ。
 少し考えた挙句、霖之助は出来るだけ落ち着いた声で呼びかけた。
「なあ」
「ひいっ!?」
 少女はびくりと体を跳ね上げて、慌てて逃げ道を探そうと大扉に手をかけた。その扉の先にはまだ氷雨がいるかもしれない。開けられては困る。霖之助も慌てて階段を下った。
「ちょっと待ってくれ! 君、雨音ちゃんだろう? 博麗神社の!」
 少女がはっとして振り返った。
「……博麗神社?」
「やっぱり。霊夢が言っていたのは君のことだったか」
「霊夢様が……?」
 霊夢の名前を聞いて、少女は力が抜けたようにその場にへたりこんだ。霖之助も安堵の溜息をついた。
 この子が久世雨音か。話しには聞いていたが会うのは初めてだ。思えばこの子が刺青木を持って現れたことが全ての始まりであるのだ。
 見たところ歳は十ばかりだろうか。あの霊夢を様付けで呼ぶとは、随分人が出来ているようだ。誰かさんに見習ってほしいものである。氷雨は雨音を死んでいると言ったが、しかしどう見ても亡霊のようには見えなかった。無意識に妖怪化したような印象も受けない。彼女は確かに実体として存在する生きた人間の少女だ。
 けれども、考えてみればそれでは計算が合わない。雨音の名が記された更紗模様の手記は、ここが夢の中であり、屋敷の調度品も日々状態が変わるということを考慮しても、軽く百年は経過したような古紙だったのだ。もちろん自分が手記を見た時にたまたま特に古い状態になっていただけかもしれない。或いは雨音が、夢の中でこそ少女の姿だが、現実はかなり高齢の老婆なのかもしれない。いや、それは無い。霊夢もさとりも、彼女を指して確かに「女の子」と言ったのだ。とするとこの子は、何らかの方法で時を超えたのだろうか?
 とりあえず、目が覚めたら博麗神社へ行って現実の雨音の姿を確認しよう。
 霖之助は雨音の襟元や袖口から覗く肌をそれとなく観察した。刺青は彫られていない。ということは彼女は巫女では無い。もちろん見えないだけかも知れないが、だからといって丸裸にするわけにもいかない。そこまで念入りに確認しなくとも、更紗模様の手記で巫女と雨音を明確に呼び分けていたことから、久世雨音が久世の巫女ではないことは予感していた。考えてみれば久世一族は儀式を執行する側の人間なのだ。執行される側の巫女は、もしかすると久世家の人間でなくても良いのかもしれない。博麗神社と同じように血筋に関わらず才能のある者を外部から招くのかもしれない。それとも単に雨音が巫女として扱われる年齢に達していないだけかもしれない。
 仮に雨音以外の久世一族の女性を見つけて、その肌に刺青が刻まれていたならば、それは久世の女はある年齢に至ると巫女としての役割を担い、その通過儀礼として刺青を彫られるという証明になる。しかし現実には難しそうだ。なにせ久世家は滅んでいるのだから。都合よく怨霊となって彷徨ってくれていればいいのだが。
 雨音は不安の残る顔でじっと霖之助を見上げていた。目の前に現れた男が何者なのか解らないでいるのだろう。霖之助は上がり口の段差に腰を下ろし、少女と目の高さを合わせた。
「僕は森近霖之助。香霖堂という古道具屋の店主をしている。博麗神社とは先代からの付き合いでね。霊夢とも懇意にさせてもらっている」
 それとなく霊夢の名を強調する。雨音の顔が多少和らぐが、思ったほどの効果は上げてくれなかった。まるで不安や緊張が仮面となって顔に張り付いているみたいだった。そのためか、少女の顔は随分と大人びて見えた。氷雨のように精悍なのではなく、年齢に合わぬ境遇が無理矢理彼女を大人に見せているような気がした。解り易く言えば疲れていた。この子はもう何日分も夢の中を彷徨っているのだ。
「君はここが夢の中だということが解っているかい?」
「はい……」
 雨音が頷く。冷静さは残っているらしい。
「解っているならいい。現実の君は、博麗神社でずっと眠り続けている」
「ああ、やっぱり……」
 雨音は納得したような、最後の希望が潰えたような弱々しい声を出した。その声に霖之助は思わず同情しかけたが、心の中で首を振った。雨音は氷雨と同じ格好をし、そして氷雨と同じ刺青木を持っていた。つまりこの二人は同じ役職に就いていたものと推定出来る。ならば今しなければならないのは、とにかく彼女から情報を入手することだ。この機を逃す手は無い。
「まず初めに言っておくことがある。僕は君と違って普段通りに目が覚める。目が覚めたら強制的に屋敷から追い出されてしまう。前にも話の途中でうっかり起きてしまったことがあった。だから先に言っておくよ。僕は君を助ける為にここに来たんじゃない」
「はあ……」
「でも、この屋敷にはもう一人幻想郷から、古明地さとりという女の子が来ている。その子は霊夢に依頼されて、君を助けに夢の中までやってきた子だ。彼女が今屋敷のどこに居るのかは解らないが、きっとどこかにいる筈だ。何とかして合流してやってくれ」
「でも、どうやって……」
「訊くのは後だ。まず言わせてくれ。僕は君が持ってきた『刺青木』という杭について調べている」
「刺青木?」
 雨音の顔色が変わった。
「そうだ。単刀直入に聞く。あれは何だ?」
「し、知らない……」
 雨音が後退りを始めた。
「知らないはず無いだろう。君が持っていたんだ」
「知りません!」
 雨音は突然悲鳴のように叫んだ。そのまま逃げ出そうとしたので、霖之助は咄嗟に雨音の肩を掴んだ。
「ひっ、放して!」
「後で逃げてもいいから今教えてくれ! あの杭が『巫女を穿つ』という用途を持った呪具だということまでは調べが付いている!」
「知らない! 知らないんです!」
「頼む! 君があの杭をどう使っていたかだけでもいい!」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
 と、泣き出した雨音を前にしてようやく霖之助は我に返った。慌てて手を放すと、雨音は霖之助から逃げるように距離を取った。
 死んだような沈黙に雨音の啜り泣く声だけが響く。泣き声は霖之助の皮膚から浸透し、細波のような罪悪感となって心を絞め付けた。まずい。急き過ぎた。霖之助は小さく頭を抱えた。それはそうだ。何日も幽霊屋敷で彷徨った挙句、突然現れた見ず知らずの男に取り調べを受けたら怖いに決まっている。まして女の子だ。霖之助は素直に反省した。
「すまない。乱暴だった」
 雨音は身を抱えて震えながら、明らかに怯えた表情で自分を見ていた。
「君は初めて霊夢に会った時、あの杭を見て酷く怯えたそうだね」
 霖之助はゆっくりと寝物語を聞かせるような優しい声で言った。
「だから霊夢は僕に、あの杭が何なのか調べるように頼んできた。それで僕は、杭の名前が『刺青木』であること、そして『巫女を穿つ』という特別な用途の為に作られたものであるという所まで突き止めたんだ」
 雨音は大人しく聞いている。全く聞く耳を持たなくなっても不思議でないのに、この状況で、ひたすら相手を警戒しながら、それでも相手の話を聞けるというのは凄い。霖之助は感心しながら続ける。
「問題はその用途でね。現在の所有者である霊夢は、巫女だ。だからもしかすると、刺青木を持っていることで彼女に悪い影響が出るかもしれない。僕は刺青木が、巫女である霊夢にとって害を成すものであるのかどうか判定しなければならない」
「霊夢様が危ないんですか?」
 雨音が驚いて顔を上げた。良い反応だ。
「そうかもしれない。違うかもしれない。もしそうだったら破壊も考えている。でも壊すなら壊すなりに正しい方法で壊したい。だから刺青木がどういうものであったのか、それを使っていた久世家とはどういう筋の者なのか知っておきたい」
「霊夢様が……霊夢様も……」
 雨音はそれきり俯いて、じっと動かなくなってしまった。
 霊夢様「も」?
 霖之助は言いようの無い疑念を抱いたが、今それを追求してもきっと答えてはくれない。後回しにしよう。
 少し時間を置いて、霖之助が訊ねる。
「確認するよ。君は博麗神社に来る前、この久世ノ宮に勤めていた。そうだね?」
「……はい。でも……」
「だから、君には聞きたいことが山程あるんだ。教えてくれるね?」
「でも、久世の儀式は秘術だから、人に言ってはいけないって……」
「大丈夫。久世家はとっくに滅んでいる。君を責める人はいないよ」
「でも、まだいるんです!」
「もしかして氷雨のことか?」
「!」
 雨音は今度こそ止めを刺されたように力を失くした。
「氷雨ちゃん、やっぱりいるんですね……幻じゃないんですね……」
 雨音は嗤うような泣くような声で言った。酷く寒々しく乾いた響きだった。氷雨の存在が彼女に一層の絶望を与えたらしかった。
「そうだね。彼女は間違いなく実体として存在しているよ。夢の中だから実体という言い方も奇妙だけれど、なにせさっき取組み合いの喧嘩をしてきたところだ」
「でも! あり得ないです! あり得ないんです!」
 雨音は嘆願するように言う。
「だって氷雨ちゃんは、私が久世ノ宮にいたときに一緒に鎮女だったんですよ! 百年前の彼女が、どうして百年前の姿のままで……」
「百年前?」
 霖之助が首を傾げる。
「……霊夢様から教えて頂いたんです。私は浦島太郎になっているんだって。どうしてなのかは解りません。でも、私は百年以上前の時代から博麗神社にやってきたんだそうです」
 ああやっぱりそうか、と霖之助は思う。
「だから、私の知っている久世ノ宮は百年前の姿で、今あるこれが何なのか、私にも解らないんです。ここが久世ノ宮であることは確かなのですが、でも、本当にこれが百年後の久世ノ宮なのか解らないんです。だって部屋も扉も、みんな一度崩して組み替えたみたいに間取りが変わっていて、おかしな所で繋がっていたり、離れた部屋同士が同じ部屋になっていたり、私に宛がわれた人形の祭壇もどうしてか地下にあって、でも祭壇だけじゃなくて、他にも知らない部屋が増えていたり、真っ暗だったり、全然解らないんです。だから、細かい所は見覚えがあるんです。だから間違いないんです。建て直した、というのとは何か違うんです。でも、お宮全体がどうなっているのか解らないんです。自分がどこにいるのかも解らないんです。だから氷雨ちゃんも解らないんです。だって、他に誰もいないのに氷雨ちゃんだけなんて解らないんです。氷雨ちゃんがいるからここは夢だというのは解るんです。だから解らないんです。でも夢だから解らないんです。久世ノ宮だから解らないんです」
 雨音はぶつぶつと聞き取り辛い声で呟き続けた。その声は徐々に小さくなり、やがて完全に聞き取れなくなった。
「捨食の法を修め、捨虫の法を修め、魔力を糧に生き、魔術を使うようになった人間を、幻想郷では『魔法使い』と呼ぶ。彼女はその類だ」
 霖之助が言った。
「……え?」
 雨音は目をぱちくりさせて霖之助を見つめる。
「年齢を止める方法はあるんだ。君が知らないだけさ。彼女は間違いなく君の知る氷雨本人だろう。恐らく久世家が滅んだ時の年齢のまま、百年間ずっと夢の中で屋敷を管理している。もしかすると屋敷が滅茶苦茶になっているのは彼女の能力かもしれない。この高い独立性を持った世界はおおよそ彼女の支配下にあると見ていい。自由度の高い夢の世界を利用して、扉だけにとどまらず、空間そのものを歪ませて迷宮にしているのかもしれない」
「あの、どういうことですか?」
「いや、知り合いのメイドにそういうことが出来る人がいてね。まあそれ以外にも何人か心当たりがあるけれど。似たようなものかなあと」
「え?」
「ああ、何でも無いよ。少なくとも彼女は得体の知れない何かではないから、怖がらなくてもいいってことさ」
「……でも……」
 歯切れの悪い雨音に、霖之助はその心情を察した。
「もしかして、君は彼女とあまり仲が良く無かったのかな?」
 雨音は黙って頷いた後、思い直したように首を横に振った。
「解りません」
 雨音は言った。
「お友達という感じではありませんでした。一緒に遊んだりしたことも無いので、仲が良かったとは言えません。けれど仲が悪かった訳でもありません」
「そうか」
「氷雨ちゃんは……」
 雨音は一度言葉を詰まらせて、続ける。
「氷雨ちゃんは、凄く厳しい人でした。私より一つ年上で、けれど私よりも何倍も頭が良くて、決断も早くて、何でも計画的に進めてしまう人でした。氷雨ちゃんの指示は御宮の大人の誰よりも的確で、無駄が無くて、氷雨ちゃんが采配を振るえば、どんな面倒事もあっという間に解決しました。だから私が鎮女として御宮に招かれた時には、もうお屋敷の中でとても高い地位を持っていました。時々、氷雨ちゃんが当主様と凄く難しい話をしていたことを覚えています。御簾の中の当主様が、自分の孫くらいの歳の女の子と真剣に相談し合っているんです。そのくらい、氷雨ちゃんは頼りになったんです」
「凄いな」
 霖之助は素直に言った。
「はい。氷雨ちゃんは凄いんです。私と一つしか違わないのに、頭が良くて、何でも出来て、当主様にも一目置かれていて、素直に恰好いいなと憧れる所もあります。でも……」
 と、雨音はまた言葉を詰まらせる。
「でも?」
 促すと、しばらく躊躇った後に小さな声で続けた。
「……やっぱり、怖かったんです。……私だけかな? ううん、きっと御宮の人みんなが、氷雨ちゃんをどこか心の底で怖がっていたと思うんです。氷雨ちゃんは頭が良すぎるんです。氷雨ちゃんはいつも、屋敷の内情を隅々まで把握していました。誰がどこで何をしているか、何をしていないか、何をしようとしているか、何をしたいか、何をしたくないか、何をされたいか、何をされたくないか、全部知っていたんです。氷雨ちゃんはほんの些細な行動から、その人がどういう人なのか見抜いてしまうんです。だから私たちを自在に動かせたんだと思います。だから当主様も、氷雨ちゃんをいつもお傍に置いておられたのだと思います。でも、だから、怖かったんです。氷雨ちゃんの眼は、私たちの心の底の底まで洗い浚い覗くようで、氷雨ちゃんの耳は、私たちの心の自分にだって聞こえない声まで聴いているみたいで、それがまるで屋敷中にあるみたいでした。氷雨ちゃんに叱られると、屋敷のどこにも逃げ場が無くて、たった一人で吹雪の中に放り出されたみたいな気分になりました。誰も氷雨ちゃんに逆らえませんでした。逆らうなと言われた訳じゃありません。氷雨ちゃん自身が支配的だったかというと、そういうことでも無いんです。ただ、自然にそうなってしまったんです。氷雨ちゃんの前で何か行動を間違えたら、氷雨ちゃんの心の中にある凄く凄く冷たい何かが、自分に刃先を向けるんじゃないかって」
 喋りながら雨音はとても辛そうにしていた。目に見えぬ氷雨の耳を恐れてというよりは、氷雨が怖いのは事実でも、それを陰口めいた形で話すことに罪悪感を感じているように見えた。この子は優しい心の持ち主なのだなと霖之助は思った。
「少し聞いてもいいかな? 鎮女として招かれたと言ったね。すると君は久世家の血筋じゃないのか?」
「はい」
「養子ということ?」
「いいえ、違います。久世という姓は、御宮に奉公が決まった際、久世の当主様から賜ったものです。だから御宮で働く人はみんな久世という名前なんです」
「なるほど。久世ノ宮には久世以外がいてはいけないのだな。鎮女とはどういう役職だい?」
「巫女様の周りでお世話をさせてもらったり、屋敷内の雑務を担当する役です」
「氷雨ちゃんも鎮女だな?」
「はい」
「鎮女は二人だけかい?」
「いいえ。四人です」
 とすると、刺青木も四本存在する筈だ。四つ揃えて初めて効果が現れる類の道具なのだろうか。
「巫女の世話とか雑務というのは日常の仕事だね? 他に特別な仕事はしないのかい?」
「……」
「言いたくない?」
 雨音は顔を伏せるように頷いた。霖之助はそれ以上の追及をひとまず諦めた。
 まだ駄目だ。もう少し時間をかけなければこの子の口から核心的な証言を得ることは難しいだろう。擦り込まれた氷雨への畏怖と、刺青木に対する何かしらの嫌な思い出が雨音の口を剃刀の刃も通らぬほど固く閉ざしている。その姿は見ていて痛ましかった。自分の中で押し殺している何かに、そのまま潰されて死にそうに見えた。いっそ洗い浚い吐いてしまって楽になればいいものを、というのは他人だからこそ言える指摘なのだろう。最終的には本人の問題なのだ。
 こういう時こそ覚妖怪の出番なのだろうなと思った。さとりは今どこにいるのだろうか。墓のある中庭で言葉を交わして以来会っていない。あの時さとりは何を言いかけていたのだろうか。何かを警告しようとしていた。それは氷雨の存在だったのだろうか。いや、確か怨霊の話だったか。
 突然、板の間の引き戸が動いた。
 物音に驚いた二人の視線が集中する。
 霖之助は嫌な予感に一瞬引き攣った笑みを浮かべた。まずい、噂をすれば氷雨だ。もう封印を解いて回り込んで来たのか。流石の手際だ。状況が状況でなければ褒めてやりたい気分だ。
 幸い戸は立て付けが悪いらしくガタガタと鳴るばかりでなかなか開かない。霖之助は横目で雨音を見た。雨音は戸を見つめて硬直している。硬直させている場合ではない。この場で氷雨と雨音を鉢合わせにするのはあまりにも具合が悪い。雨音と自分が一緒に居るところを見られたら、この子にまで火の粉が降りかかるかもしれない。
「隠れて。氷雨が来る」
「えっ?」
 声と同時に引き戸が開いた。霖之助は咄嗟に立ち上がり、雨音を庇うようにして体の陰に隠した。
 しかし、そこにいたのは氷雨では無かった。
 虚を突かれて思わず頭の回転が止まった。開いた戸の先には青い人が立っていた。そうとしか形容出来なかった。髪の長い若い女性だ。青い袴に、まるで天鈿女のように乳房まで露出させて、その全身の肌が爪先から顔に至るまで隙間無く青かった。
 青い女性は、耳が痛くなるほどの沈黙を連れて佇んでいた。
 これは、誰だ? いや、何だ?
 霖之助の陰からそっと様子を窺うように顔を出した雨音が、女性を見た瞬間驚愕に目を見開いた。
「……巫女様?」
「えっ?」
 雨音の呟きで霖之助は我に返った。これが「久世の巫女」? ということは、青く見えるそれは全て刺青なのか? 彫り過ぎだ! いや、彫り過ぎたから死んだのだったか? それにしても予想を遥かに上回る刺青の量だ。儀礼用の刺青といっても、せいぜい化粧程度に留めるものだと思い込んでいた。ここまで徹底して彫るものなのか。凄いな。
 あまりの衝撃に霖之助は却って冷静になった。
 そして今一度久世の巫女を見やって、血が凍った。
 あれは駄目だ。
「隠れろ!!」
 霖之助は叫び、呆然とする雨音を彼女が入ってきた狭い床下通路へ半ば無理矢理に押し込めた。雨音が子供で良かった。大人の体格ではこの隙間には入れない。
「え!? 何を……きゃあ! 待って、痛いです!」
「あれは僕が引き付ける! しばらく息を殺していろ! いなくなったらここから出て、古明地さとりと会うんだ! いいな!」
 早口に言ってしまうと、返事も待たずに跳ね上げ板を下ろした。青い女性が部屋へ一歩踏み入れる。霖之助はその正面を横切るようにして駆け出した。
 久世の巫女は始めから瞼の無いような眼を見開き、霖之助を捉えた。金色をした蛇のような眼だ。その眼に映された半身が強酸を浴びせられたように痛い。傍を通っただけでこれか! まるで目から見えない毒を流し込まれたみたいだ。そうか、さとりが警告しようとしたのはこれだ。自分の永い人生の中で出会った如何なる怨霊とも格が違った。何だこれは? 何をすればこんなものが生まれるんだ!
 久世の巫女は硬い巌も砂に帰すような強烈な威圧を振り撒きながら、怠慢に暴れるような出鱈目な動作で霖之助を追った。
 二人はそのまま屋敷の奥へと消えていった。




続く

くおんにねむる | 【2012-11-14(Wed) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(4)
コメント

霖之助も柊を打たれましたか。
彼も制限時間を設けられた訳ですが、その事に気付くのは何時でしょうかね。

氷雨の言では、時雨はまだこの屋敷で活動している、出来る存在みたいで。
雨音は咎打ちで破戒前に死亡、ともすれば水面がどうなったか気になりますね。
ゲーム版通りであれば雨音は残留思念、水面は怨霊になってますが。
しかし、やっぱり柊を収める巫女にされる予定だったんですかさとりさん。
どうやって収めるかが気になりますね。収める相手も居らず、刻む刻み女も既に居ない。
まさか刺青巫女にネックハンギングツリー(片手、即死)させて柊注入とか……まだ謎ですねー。氷雨の思惑や如何に。
2012-10-16 火 02:19:57 | URL | taka #8iCOsRG2 [ 編集]

霖之助VS氷雨の展開に驚きながらも凄く楽しんでいる自分がいました。
氷雨を手玉に取ろうとする霖之助さんまじ外道。流石少女の扱い方には慣れていますw

それにしても、気になるのはニセ雨音こと時雨の状況ですね。
霊夢に針を刺されたことで何か変わるのか、そして今何処にいるのか。
楽しみにしています。
2012-10-16 火 19:23:05 | URL | #kk4AaY6U [ 編集]

秋人の残した文書から久世の実態を読み取ろうとする霖之助。
ここで写影機が見つかれば彼が怨霊に対抗する手段も手に入ったでしょうけど見つからなかった様で。

霖之助が事を急いで雨音(時雨)を怖がらせてしまったのはある意味彼らしいかと。
彼からすれば当時を良く知る雨音(時雨)は貴重な情報収集源でしょうね。
でも、鎮女としての帰属意識と氷雨に対する潜在的な恐怖が口を強張らせると。
(霖之助が憂慮してた様に、少しでも情報を渡したと知れれば間違いなく時雨を咎打ちしそうですあの子なら)
しかし、それに横槍を入れたのは氷雨ではなくラスボスたる刺青の巫女。
ワンタッチでデッドエンド直行の彼女から果たして逃げ切れるんでしょうか。
意外に走るの速いですし、偶にダッシュ攻撃してくるのでゲーム中であっさり殺された事が多い事多い事。


氷雨が能力者であるかどうか
確かに彼女が当主からの最後の命令で「狭間を封じる為の儀式」を執り行っており、他の三人と比べて当主と直に談判出来るなど別格扱いですね。
(本来は久世家直系の雨音よりも適性が高かったろうから、雨音は肩身が狭かったかも)
幻想の郷が存在するこの世界はゲーム版の世界より神秘は現存しているので、氷雨が能力者であっても不思議ではありません。
それが彼女にとって幸せかどうかは別ですけどね。
2012-11-15 木 12:10:44 | URL | taka #8iCOsRG2 [ 編集]

霖之助さんのポジション危ういなぁ
さとりや雨音に色々ヒントを与えたり助けたりしたのち死にそうなフラグビンビン
2012-11-15 木 12:42:01 | URL | #- [ 編集]
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