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あめふら

Author:あめふら
二次創作のお話を書いたり、書かなかったり。
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目次
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刊行
pixivで描いた漫画をまとめました。


『OVERCOLL2』 とらのあな
booth
制作
作ったものを売っています。


『レジンフィギュア・物部ハト』 とらのあな

リンク
くおんにねむる 十八、十九、二十
前回からの続きです。未読の方は先に前話をお読み下さい。


  十八


 この世界に降る雪は温度が無い。暗鬱とした空を見上げながらさとりは思った。それなのに寒い。音と、心の熱量が喰われていく。独りだから尚更そんなことを思ってしまう。
 どのくらい時間がたったのか解らない。何時間もたったような、でも、まだ数分しかたっていないような奇妙な感覚が同時に存在する。延々と雪が降り続けているのに積もる量は変わらない。灰色の世界は悲しいくらい不動で、暖かくも無く冷たくも無くさとりを取り囲んでいる。
 もう、待つのにも疲れてきた。
 俯き加減に扉を見る。開け放たれた扉は相変わらず大きな口を開けた蛇みたいにそこに佇んでいる。扉の奥に見えるのは、昔はさぞ立派であっただろう整然とした玄関だ。
 そう。玄関。
 この屋敷に入ってから二つ目の玄関がそこにはあった。ということは、この中庭を境にして屋敷が二つに分かれている、或いは元々二つの屋敷だったという霖之助の仮説は当たっているのかもしれない。

 さとりは弱々しく立ち上がった。
 先に進もう。誘われていようと、罠であろうと、ここでじっとしていては何も変わらない。
 玄関の前で深呼吸して、薄暗い屋敷の中へと勇んで足を踏み入れる。体が完全に戸を潜りぬけたのを見計らったように音を立てて扉が閉まった。予想はしていたので驚かない。落ち着いて辺りを見回してみる。
 小さな家族であれば十分に暮らしていけるような広さを持つ玄関は、荒れ放題というにはまだ少し早い程度に朽ちていて、土間を上がった先に伸びる十字の廊下には、どういう理由をもつのか釣鐘が等間隔に下げられている。梁の上には板が渡されていて、恐らく通路代わりにでもしたのだろう。廊下の奥からずっと、土間の上に突き出した手摺の無い中二階まで続き、そこに立っていた少女と目が合ってさとりは呼吸が止まりそうになった。
 以前霖之助が閉ざされた部屋の中で見た髪の長い巫女姿の少女である。さとりは硬直したまま彼の記憶越しに少女の顔を確認した。
 少女は長いこと検分するようにさとりを見ていたが、やがて宙に足を踏み出すと、そのままふわりとさとりを飛び越し、行く手を塞ぐかのように正面に降り立った。
(え? この中って飛べないんじゃ……怨霊は別なのかしら……?)
 と、さとりは自身の心に違和感を覚える。思わず怨霊を直視してはならぬという鉄則も忘れて少女を真正面から眺めた。少女もまたさとりを見返してした。
(怨霊?)

 この子は怨霊だろうか?
 それにしては心に乱れが無さすぎる。少なくとも屋敷の中で見たような、理性を失くした狂気は感じ取れない。肌を炙るような赤い攻撃の意識が無いのだ。敵意も、激情も、憎念も無い。冬の湖のように静かだ。私よりも背の低い少女なのに、これではまるで長年の修行を経た僧都を相手にしているみたいだ。
 何者だ?
 怨霊を、生きたものに害をなす悪意のある霊、とするなら彼女はカテゴリから外される。だが、かといって人間かというとそれも怪しい。この屋敷に普通の人間が暮らしてなどいるものか。私や彼のように外から迷い込んで来た人なのだろうかとも思ったが、彼女の纏う青い巫女装束や雰囲気は二番目の皮膚のように屋敷に馴染んでいる。まるで百年前からこの屋敷に住んでいるみたいだ。
 人でないとすれば妖怪だろうか? 確かにこの静けさは妖怪じみて見えなくも無い。
 疑問を解くには思い切って訊ねてみればいい。少女の顔付きからは確かな理知が感じ取れる。きっと話は通じるだろう。しかし会話を交わすということは、関係性を持つということに他ならない。仮に彼女が良くないものだった場合、迂闊に繋がりを持つのは拙い。

「変わったお人ですね」
 迷っているうちに少女が話しかけてきた。声だけは見た目相応の少女らしいのが逆に不気味だ。
「人の形をしているのに、まるで人では無いような。けれど人の気持ちを汲むのはとてもお上手」
 少女が魂まで見透かすような声で言った。何だこの子は? 一言も口を利いていないのに、これではどちらが覚妖怪だか判りやしない。
「……これならば巫女の代わりも務まるだろう、と考えていますね」
「はい」
 対抗して心を読んでみたが少女は動ぜず、それどころか嬉しそうににっこり笑った。
 ああ、言葉を交わしてしまった。これで後には退けなくなった。元々逃げ場など無かったのだけれど。だが久し振りに聞いた明瞭な他人の声に、僅かながら安堵したのも事実だ。もし墓のある中庭であのまま何十時間も待ち続け、心がすっかり淋しさで塗り潰されてしまっていたならば、少女に話しかけられた瞬間に自分の全てを預けたかもしれない。ぞっとする。
 さとりは息を呑んで少女の一挙一動を見守る。平行して少女の心と先程読み上げた台詞を照らし合わせ、奇妙な言葉に引っ掛かりを覚える。巫女の代わり? 何だそれは?
 少女が微笑みながら言った。
「お解りいただいているのであれば構いません。久世ノ宮は貴女を歓迎致します。屋敷がこの有様なので、あまり手の込んだ御接待も出来ないのが恐縮ですが、代わりにこの氷雨が精一杯御奉仕仕ります」
 氷雨と名乗った少女は丁寧に頭を下げた。さとりは反射的にお辞儀を返した。
「見慣れぬ屋敷でさぞお疲れでしょう。今は余計なことは申しません。一先ずはお休み下さい。御案内致しますので、どうぞこちらへ」
 氷雨はもう一度礼をするとくるりと背を向けて、屋敷の奥へと誘うように歩き出した。さとりは氷雨の背中を見えない糸が張るかのように一定の間隔を空けて追った。

 正確には、追わされている。さとりの前を歩く氷雨は、さとりが自分の後に付いてくることを一片の迷いも無く確信しているのだ。彼女を貫く奇怪なまでの自信が、三番目の眼を通してさとりに雪崩れ込み、意識はやがて神経を支配して、気が付くとさとりは足を動かしてしまっている。まるで足同士が見えない枷で繋がっているかのようだ。足音の無い時計の針のような歩き方が、有無を言わさずさとりの体を引き摺っている。そうせざるを得ないのだ。
 さとりは恐怖を覚えた。死者に対するそれではない、生きた人間に対して抱く生々しい恐れだ。どうしてこの子はこんなに静かなのだろう? 元々感情が備え付けられていないのかと疑うほどに、心が静か過ぎて気持ちが悪い。恐らくはあえてそうしているのだろうが、まるで透明過ぎてそこにあることが解らない氷のようだ。無機的で冷たく、外見と内面とが驚くほど一致しない。左右に波打つ髪や袖から伝わる空気の震えは、間違い無く彼女がそこに実体として存在していることを示しているのに、当然そこにあるべき心の震えが無いために、丁寧に擬態された錯覚のような得体の知れなさをさとりに残した。
 いっそのこと彼女に付いて行く振りをして、途中から出鱈目に逃げようかと思った。しかし、今この場で逃げ出したら次に自分の身に何が降りかかるのか全く想像が出来無かった。一寸先の未来が闇なのかどうかも解らない。透明なのだ。さとりは歩きながら指先が震えているのに気が付いた。拳を握って抑え込むと今度は手全体が震え出した。
 今更言葉を交わしてしまったことを後悔した。ひたすらに無視を決め込めばよかった。それかすぐに逃げればよかった。確かに墓のある中庭で蹲っていた時よりは事態は進行した。しかし私の意思を無視したところで、私からは解らないように進められても不安が増すだけだ。歓迎などと言われたところで信用出来る筈もない。しかも何だ? 巫女の代わり? 彼女は一体私に何をさせようというのだろう。私は何をされるのだろう。私が元の世界に戻れない事と何か関係があるのだろうか。彼女は何も教えてくれない。だが何か良くないものに巻き込まれていくのではないかという予感はする。そして私はそれに従うより他に方法がない。うっかり時計の中に迷い込んで、いつか歯車に挟み潰されて死ぬのを怯えて待っている小さな虫のような気分だ。この朽ちた屋敷の中ではとてもじゃないが明るい未来は想像出来ない。かといって逆にどこまでも救いの無い暗闇というのも想像出来なかった。
 何でもいいから情報が欲しいと思った。だが少女の心はそれすら許さないのだ。せめてこの微睡のような状態から抜け出そうと、さとりは氷雨に話しかけるべく何度も口を開いた。しかし喉の奥まで出かかった言葉は、聴覚的な沈黙と氷雨の精神との二重の静寂に沈められ、結局さとりは無言を貫いた。

 二人は玄関から鐘の廊下を一直線に突っ切って、突き当りの物置廊下から階段を昇り二階へと上がった。氷雨に先導されるまま、着物の並んだ七畳ほどの部屋を通り抜け、再び廊下に出ると、行き止まりに大きな両開きの扉が備えられていた。扉は廊下よりも数段高い位置にあり、高さを調節するために廊下はそのまま短い階段となっている。
 扉の前へ着くとようやく氷雨は足を止めた。ここで初めて彼女は後ろを振り返り、さとりがきちんと自分に付いてきていることを確認した。満足そうに微笑むと扉を開ける。扉は重そうな音を立てながら、音に見合わぬ軽々しさで開いた。
 扉の隙間からは格子のようなものが見える。それが何なのかさとりは解らなかった。扉が開き切り内部の全体像が把握出来てもなお理解は出来なかった。
 窓の無い八角形の部屋の真ん中に巨大な鳥籠のようなものが下がっている。形はおおよそ正方形で、丁度人が一人、中で横になれるだけの大きさだ。籠の真下には床が無く吹き抜けになっている。籠の底は周囲の床よりも深く下りていて、どことも接触していない。つまり籠の揺れる動きを邪魔しないように、間隔を開けて足場が囲っている。
 これは何だ? 立ち竦んでいると氷雨が籠の入り口を開けた。
「どうぞ」
 あまりにも自然な導きにさとりは言われるがまま籠へ入ろうとして、慌てて足を止めた。止めた瞬間どっと汗が噴き出た。思わず後退りすると、氷雨は澄んだ黒い氷の眼で言った。
「浮獄といいます」
 言いながら牢を軽く押す。牢は優しく答えるように揺れた。
「御安心下さい。何も恐れることはありません。驚きになられるかもしれませんが、代々巫女なる者はここで暮らすのが習なのです。これはそのために作られた揺り籠です」
 この子は何を言っているんだ?
 さとりは思わず胸を押さえた。膝の裏からそっと養分を吸い取られるみたいに血の気が引くのが解った。何が歓迎だ。どう見ても閉じ込める気じゃないか。それに揺り籠じゃない。これは吊り牢だ。
「どうか誤解しないで下さい」
 氷雨は少し寂しそうに言った。
「貴女の身を護る為でもあります。恥ずかしながら今の久世ノ宮ではここが最も安全なのです」
 そうだ。氷雨の言葉は一言一句正しいのだ。彼女の心に嘘は無く、邪心も無い。彼女は本気で私の身を案じ、そのために私を閉じ込めようとしている。氷柱のように迷いが無い。それが恐い。理知に隠された極端な純粋さが伝わってくる。きっと彼女は目的の為なら何だってする人だ。彼女はきっと将来自分の餌とするために鼠を育てる猫なのだ。甘い蜜を振りまく食虫花なのだ。ここで彼女に従ったら取り返しが付かなくなるという確信がある。
 自然と息が荒くなった。大蛇に睨まれた仔羊のような気分だ。絶体絶命が解っていながら、心が必死に逃走を訴えながら、彼女に背を向けることが怖ろしくて出来ない。あの目から視線を外せない。さとりは苦し紛れに、腹を空かせた熊と遭遇した不幸な遊山者のようにじりじりと後ろに下がった。
 逃げなければ。さとりは自分に言い聞かせた。今こそ逃げなければ。そして凍った足を無理に動かし、渾身の力を込めて大きく一歩下がった瞬間、足を踏み外して宙に浮いた。踏み外すまで階段の存在を忘れていた。慌てる間もなかった。気が付いた時には浮遊感がうなじを逆撫でして、さとりは小さな悲鳴を上げながら階段を滑り落ちた。
 どさどさと大きな音が響き、沈没船の後の水面のような嫌な沈黙が残った。
 幸いさとりが落ちたのはごく短い階段であった。だが碌な受け身も取れず背中から体を貫いた平たい衝撃は、張り詰めていた緊張の糸を断ち切るには十分で、さとりはそのままいとも簡単に意識を手放した。

 倒れたまま動かなくなったさとりの下へ氷雨が急ぎ駆け寄った。その顔には上手に隠された焦燥が透けている。もしさとりに意識があれば、恐らくは氷雨のことを初めて人間らしいと感じたかもしれない。
 氷雨はさとりの側に屈みこむと、肩を揺すり意識の有無を確かめた。続けて抱きかかえるように顔色を窺い、胸に手を乗せて呼吸を計った。体を横に倒し背中を捲る。打ち付けた個所が赤くなってしまっているが、他に怪我らしい怪我はない。内出血も起こしていないし、瘤もないし捻ってもいない。
 氷雨は安心したように小さく息をつくと、さとりの上体を持ち上げて起こし、背中から羽交い絞めの形で腕を回して、彼女を吊り牢まで運ぼうと引き摺ったが、二歩だけ歩いてさとりを手放した。体格差のためにどうしても引き摺る形になってしまうのが、氷雨には気に入らないらしい。
 その後少し考える素振を見せ、今度はさとりの横に立ち、背と膝の裏に手を回して横抱きにしようとした。だが力が足りなかった。さとりは持ちあがらず、転がるに止まった。氷雨は諦めたように手を離し、はっきりと困った顔を見せ、再びさとりを引き摺る体勢に移行する。
 そこで不意に視線を感じ顔を上げた。顔の先には引き摺るほど髪の長い女性が着物の間から呆けた眼でじっと二人を見ていた。



  十九


 柔らかいベッドの上に仰向けに寝かされているさとりの瞼に触れる。血の透けるような白い肌と彫刻のように動かぬ体は、どこか光景を現実離れしたものに置き換えていて、枕元のランプから身体を両断するように伸びる影は幻想的ですらある。絵画の中にだけ存在する作為的な切り取られた一瞬のような体が目の前に横たわっている。
 指先に返る弾力と温かな体温は、彼女が間違いなく生きていることを示している。しかしそれだけだ。死んでいないというだけだ。むしろ、死は永遠の眠りと言う比喩を鵜呑みにするならば、これほど美しく死を体現した肉体も無いだろうと思えた。図らずも霊夢は白雪姫を連想した。硝子の棺に入れられた姫君は眠るように死んでいた、あるいは死んだように眠っていた。まさに今の彼女だ。
 ああ、面倒なことになった。
 霊夢は溜息をついてベッドに腰掛けた。まさか眠りが感染するとはそれこそ夢にも思わなかった。しかも段階を踏むのではなく、いきなり昏倒するとは。紛れも無く私が招いた結果だ。言い訳はしない。したところで現状が変わるわけでも無い。
 何故こうなったのだ? 推測は出来る。さとりは覗き見した雨音の夢の中で、触れてはいけない何かに触れたのだ。全身青いというあの女か。そもそも屋敷に入ってしまったこと自体が間違いだったのか。
 霊夢の横ではお燐が腕を組んで仁王立ちしている。敵意というか、やり場の無い怒りの放出先として仕方なく霊夢を睨んでいるようだ。そんな目で見られたところでどうしようもない。この状況はあまりにも予想外だったのだ。決して霊夢の手落ちでは無い。だが霊夢が原因の一つであることもはっきりしている。それが解っているからこそ、お燐は何も言えないでいる。
「動かしていい?」
 霊夢が言う。お燐は黙って頷く。霊夢はさとりの体を抱くようにして上半身を持ち上げた。華奢な背中だ。
「脱がしていい?」
「なんで?」
「ちょっと確かめたいことがあるの」
 答えを聞く前に背中を捲り上げる。予想した通りだ。さとりの背には雨音と同様の、いやそれ以上の鮮やかさで蛇の模様が浮かび上がっている。肌の色が白い分だけ細部まではっきり見て取れる。鱗の他に見える棘々した葉は恐らく柊だ。蛇と柊。何かの象徴だろうか。単純に模様として見る分には美しい。だがそれが背中にあるのは正直痛々しい。背中に受けた致死の傷痕が未だに治らずに疼いているように見える。なんとなく擦ってみたが、何も起こらなかった。
 横で覗いていたお燐が訊ねてきた。
「お姉さん、何をしているの?」
「お燐、あなたこの模様に見覚えある?」
 訊ね返すとお燐は不安げに首を傾げる。
「ねえお姉さん、私には模様なんて見えないんだけれど」
「……ちょっとこっちに来て」
 霊夢はお燐を手招き、自分の隣に座らせた。同じ目線の高さで並んでさとりの背中を見つめる。
「何が見える?」
「背中が」
「それだけ?」
「うん」
「私には青紫の蛇が見える」
「えっ?」
 指を這わせながら霊夢が説明する。
「こっちが多分頭で、こう、うねってる。本当に見えない?」
 お燐が首を横に振ると霊夢は溜息で返した。どことなく責めるような溜息だったので、お燐は何か自分の発言が癪に障ったのかと思い耳を垂れた。もちろんお燐の勘違いだ。
 私にしか見えていない?
 霊夢は顎に手を当てて考える。さとりの背に浮かんだ模様と雨音の背に浮かんだ模様が同じものならば、恐らく雨音の背に浮かんだ模様も他人には見えないのだろう。
 何故だ?
 少し考え込んだが、結局解らないままで止めておくことにした。特別追求すべき問題でもない。見えるものは見える。どうでもいい。それはそれとして今は何をすべきかだ。
「ねえ、それで……その蛇がどうして……」
 お燐がおずおずと訊ねた。仁王立ちしていた頃の威圧はすっかり消え失せていた。
「解らないわ」
 すっぱりと答える。
「確実なのは、うちの雨音と同じ症状ってことだけね」
「そう! そうよ! 雨音ちゃんどうしちゃったの?」
 お燐が身を乗り出す。霊夢は空返事気味に、
「どうしちゃったのかしらね」
「どうしちゃったのかしらねって、一緒に暮らしてきたんじゃないの? なんで何も解らないの?」
 言った後で、明らかに八つ当たりだったことに気付いてお燐はバツの悪そうな顔をした。別に霊夢が悪い訳ではないのだ。
 霊夢はそれを無視するように、あるいは初めから話を聞いていなかったかのように、
「お燐、紙を頂戴。それと書く物」
 と指図した。

 お燐が紙と鉛筆を持ってくると、霊夢はさとりの背に浮かび上がった紋様を器用にスケッチし始めた。さりさりと鉛筆を走らせる音だけが響く。お燐は肩越しに霊夢の絵を覗いてみて、そこに描かれた模様が考えていたよりもずっと芸術的だったので素直に感心した。そしてその絵がさとりの背中に貼り付いている様を想像してみた。あまりにも似合わなかった。まるで何かの罰みたいだ。見せしめの為に彫られた刺青のようだ。
 不意に瞼の裏にさとりが大きな青い蛇に絞め落とされて、今にも丸呑みにされそうな光景が思い浮かんだ。さとりは光の無い眼をして、辛うじて力の残った指先で大蛇の腹を引掻き、口から血泡を噴き出しながら、これからゆっくりと死んでいく自分を悲しそうに見ていた。
 お燐は頭を振って凄惨な空想を追い払った。耳と左右の三つ編みが柔らかく揺れた。
「……どうすればいいの?」
 呟いた途端、お燐はどうしようもない無力感に襲われた。自分の知らないところで、自分の知らない何かが、何故そうなのかも解らずに、自分の大切な人を奪っていく。目の前で刻一刻と焼け落ちる家を見るみたいに、それが失われていくのが解るのに、自分には何も出来ない。恨むことすら出来ない。なんて辛いんだろう。気が付くと涙を浮かべていた。
「どうして、さとり様がこんな目にあっているの? さとり様が何をしたっていうの? こんなのって……」
 霊夢は手を止め、横目でお燐を見た。俯く彼女の横顔をしばらく見た後、再び作業に戻った。永琳は雨音を診て「すぐに死ぬことは無い」と言った。ならばさとりもそうだろう。しかしそれを伝えたところでどうにもならない。いつかは死ぬ。それを言い換えただけだ。
 霊夢は絵を描き上げると折り畳み袂に放り込んだ。捲り上げたさとりの服を戻して、優しく寝かしつける。クッションがさとりの頭を柔らかく受け止めた。いいクッションだな、と思った。そうしてから俯いたお燐を抱き寄せ、しばらく頭を撫でた。
「また来るから」
 と言い残して霊夢は地霊殿を去った。

 霊夢は考える。蛇が二匹も出てきた以上、無関係ではあるまい。久世ノ宮で祀っていたのは蛇だ。よりにもよって蛇か。
 いよいよ面倒なことになった。蛇はただでさえ賢しいのに、祀られていたとなると並みの神性では無いだろう。
 大抵の場合、蛇体の神は水神である。水の持つ流動性を蛇に見立てて祀ったのだ。言うまでも無く水はあらゆる生物にとって命の基盤であり、故に水神は古代から絶大なる信仰と畏怖を集めてきた。自らの皮を脱ぎ捨て生まれ変わり続ける蛇は、命の流動と無限に続く循環の象徴としてやはり別格の存在だった。
 人々は蛇の中にありとあらゆる神を宿した。お蔭で蛇の受け持つ分野の広いことといったらない。ある時は河川、ある時は雨、ある時は虹、ある時は山、ある時は雷光、ある時は刀剣。富、伝令、音楽、死、再生、誕生、流転、製薬、英知、切りが無い。最早神秘や霊力そのものを指して「蛇(チ)」と言ったくらいである。
 もう一つの要素である柊もまた普通の植物ではない。「鬼ノ目突」の異名通り、鬼すら退ける魔除けの木なのだ。
 柊に囲まれた蛇。蛇自体を強力な破邪の性質で底上げしているのか、それとも絶えず魔を退けていない限り安定しないような繊細な存在なのか。或いは両方かもしれない。
 激烈でありながら乙女のように繊細な、扱いにくい神であれば、久世ノ宮が変わった社であったということにも納得出来る。決まり一辺倒の祝詞を挙げて満足するような神ではないのだ。それか単純に我儘なだけかもしれない。
 元々神に対する決まりきった応対方法なんて確立されていないのだ。神託でも無い限りは、人々がこれでいいだろうと信じた方法で祀るしかない。大抵の場合はそれで通る。神様だって一生懸命自分の為に考えてくれた祀事が嬉しくない筈が無い。間違っていてもちょっとくらいは妥協してくれるし、正しい方向へ誘導してくれさえもする。
 だが久世の神は妥協を許さなかったのかもしれない。そのために頻繁に要求を突き付ける暴君のような性格の神だったのかもしれない。
 しかし、それでも久世の神は信仰すべき価値のあったものだったのだろう。恐らくは信仰の代償に絶大なる加護を与えたに違いない。でなければ人々が付いてこない。
 とすると、この症状は呪いなのかもしれないと霊夢は思った。何らかの理由で神が機嫌を損ね、雨音に対して罰を与えているのではないか。可能性はある。なにせ雨音は血塗れで現れ、お燐曰く人殺しなのだ。不慮の幻想入りにしたって久世の神から解釈すれば、自らの役目を果たさず出奔したものと思われるかもしれない。あるいは氏子を一人奪われたと嫉妬に狂ったかもしれない。蛇は嫉妬深いとも言われている。
 雨音はそれでいい。では、さとりは何だ?
 とばっちり?
 だとしたら何とも性質の悪い。
 霊夢は首を回した。別に肩が凝っている訳では無い。
 せめて元凶が夢の中から出て来てくれれば楽なのになと思った。久世の神が幻想郷における他の神々や妖怪と同様に受肉していれば、いつも通りぶちのめして終わりなのに。夢中の蛇など聞いたことも無い。どう手出しすればいいか解らない。流石は蛇。潜むことにおいても一流だ。まあ、だからといって見逃しもしないが。

 とりあえずやってみるか。霊夢は抽斗から霧雨のように細い針を数本取り出した。霊夢の持つ針の中でも一二を争うほど細い針だ。しなやかで折れにくく、肌に刺さっても痛みや傷を残しづらい。
 霊夢は動かぬ雨音を俯せに返し、夜着を半分脱がせて背中を露わにする。そこへ馬乗りになり、左手で水平に持った針を唇へと挟み、真横に引き抜きながら舌先で針を舐めて湿らせる。抓むように針を構え直し、背中に浮かんだ蛇の腹に、鎧の隙間を縫うように狙いを定め、打ち込む。
 と、その針が皮膚に刺さる寸前に霊夢の動きが止まった。背から顔を遠ざけて俯瞰する。何かが違う。昨日までと何か、そうだ、模様が広がっている。昨日までは首筋からせいぜい肩までだったのに、今では肩甲骨の辺りまで下りてきている。
 霊夢は構えを緩め、少しの間沈黙した。
 これは、もしかすると病状の進行度ではないだろうか?
 霊夢は仮説を立てる。夢の世界は少しずつ体を蝕む毒のようなもので、侵された分だけ現実世界に痣となって帰るのではないか。毒の量だけ模様が広がるなら、恐らく全身に広がり尽くしてしまった瞬間命も終わりだろう。
 だとすると雨音には悪いが非常に解りやすい。デッドラインが見えた。右も左も解らぬ霧の中にいるよりはずっとやりやすい。そうなる前に彼女を起こせばいいのだ。
 霊夢は雨音の背に指を這わせながら、前日までの模様の範囲を思い出す。進行速度から計るに、雨音の命は三週間か、持って一月というところか。しかしさとりのように急激に容体が悪化することも有り得るから油断は出来ない。
 そうだ。模様の広がりからすれば一番危ないのはさとりだ。
(妖怪は精神の病に罹りやすい……関係あるのかしらね)
 霊夢は針を構え直した。どうせ考えて何か思いついたところで完全に隔離された夢の中に信号など送れないのだ。逆も然り。今は手探りで進めていくしかない。雨音には悪いが色々と試させてもらう。
 まず第一問。現から背の模様を通して夢中の蛇を刺せるかどうか。成功したところでそれを確かめる術は無いが、雨音に僅かでも反応があればいい。
 ぷつり、と軽い手応えを返して、柔らかな背中に針が突き刺さった。まるで花瓶に花を挿すように、次から次へと針が刺されていった。



  二十


 ねいりなさよ はたて
 ねいりなさよ はたて
 なくこは かごぶね ついのみち
 いちわらきざんで おんめかし
 ねいりゃせな さかみはぎ

 ねいりなさよ はたて
 ねいりなさよ はたて
 みこさん あわいに おきつけば
 しせいぎ うがつて いみいのぎ
 くもん ひらいて やすからず

 誰かがすぐ近くで歌っている。どこか悲しみを帯びた青く透明な声が、頭の中に優しく滑り込んでくる。歌詞の意味は解らないが、曲の調子からすると子守唄のようだ。まるで水の中にいるように体が解け心安らぐ。時折歌に合わせて、柔らかい指先がするすると髪を撫でていく。
 さとりは夢現にその歌を聴いていた。これほど穏やかな気分になるのは随分久し振りのような気がした。それはこの屋敷に入ってから要らぬ緊張を強いられていたせいだろう。
 段々と意識が覚醒してきた。私は寝かされているらしい。記憶と辿ると、吊り牢の前で足を滑らせたところから先を覚えていない。どうやら気を失っていたようだ。薄らと眼を開ける。気が付いたらここはベッドの上で、体を起こせば地霊殿の見慣れた内装が見える、ということを少しだけ期待したのだが、もちろんそんなことは無かった。むしろこの状況で唐突に現実へ帰れたとしてもそちらの方を夢だと疑ってしまうかもしれない。さとりは再び眼を閉じ、細く長い溜息を吐いた。世界そのものに対して懐疑的になっている。これは重傷だ。起き上がる気力も起きなかった。そのまま体の各部に意識を巡らせて痛みの有無を確認する。特に無い。幸い怪我はしていないらしい。そうと決まれば動かなければならない。さとりは目を開いた。
 床と平行に並んだ視線の正面には衣桁に掛けられた沢山の着物が見える。頭の方には琴があり、足の方には廊下が見える。どうやらここは吊り牢に至る途中で通り過ぎた着物の間のようだ。一先ず意識を失っている間に牢の中に入れられていなかったことにほっとする。氷のような少女にも人道的な一面があったのだろうか。何にせよ有り難い。髪を撫でる指がますますの安らぎを与えた。誰の指かは解らないが……。
 誰だ?
 さとりはそこで初めて自分が誰かに膝枕されていることに気が付いた。眼を見開いて自分の背後に全神経を集中する。
 氷雨では無い。森近さんでも無い。大人の女性だ。
 意を決して仰向けに寝返ると、虚ろな目をした女性の顔が映った。女性はさとりが目を覚ましたことに気が付くと、ゆっくりと視線を下ろして膝の上のさとりと目を合わせた。しかしそれはさとりを見ているというか、自分とさとりの間に広がる果てし無い空間に浮かぶ見えない雲を見るようだった。
 歌が止んだ。先程から子守唄を歌っていたのはこの女性だったのだ。静寂の中に幽かな残響が谺し、すぐに消えた。さとりと女性は黙って見つめ合った。
 美しい人だった。二十代後半の、溌溂とは言えないが落ち着いた嫋やかな指先がさとりの額に触れて止まった。二十代後半と予測したが実際はどうか解らない。女性の体つきにはどこか時間性が無かった。夢見る少女のようにも、あらゆる世の残酷さを突き付けられた中年のようにも見えた。
 いずれにせよ彼女が疲れ切っていることは確かだった。整った顔立ちをしているだけ余計に、少しやつれて、心ここに有らずといった感じなのが夢幻のような美しさを際立たせている。雪中に一羽だけ取り残された飛べない翡翠のようだ。そして恐ろしく髪が長かった。絹糸のような淀みの無い髪は音無しの滝のように床に広がり、彼女の背後で黒色の瀬を作っていた。
 止まっていた指が動き出した。女性は再びさとりの頭を撫で、唇から歌を紡いだ。さとりは動けなかった。女性の膝の上に寝転んだまま、幼児のようにされるがまま頭を撫でられていた。
 からっぽだ、とさとりは思った。この人はからっぽだ。心の中に殆ど何も残っていない。氷雨のように意図して作られた静寂ではない。本当に何も無い。荷物を運び出してしまった部屋のように空虚だ。かつてあったであろう心の痕跡が壁に焼き付いた影のように僅かに感じ取れるだけだ。
 きっとこの人は狂っているのだろう。それも、とても悲しい狂い方をしたのだろう。
 しかしだから私は安らいでいるのかもしれない。正気では出せない透明で純粋な月光のような歌声はたまらなく素直に耳へ届いた。虚ろな心の中でどんな意識にも邪魔されない誠実な反響を繰り返した声は心地がよかった。哀しみだけが水面に降る雪のように沁み込んで消えていく。

 階段を昇る音が聞こえ、氷雨が戸を開けて入ってきた。女性の膝の上にいるからだろうか、さとりは随分落ち着いた心で彼女の登場を受け入れた。相変わらず氷雨の心は深々として冷たいのだが、奇妙なことに丸窓のある玄関で見た時よりも人間らしく思えた。
「どこか痛む個所などございますか? 遠慮せず仰って下さい」
 氷雨はさとりの前に座して言った。「いいえ」と答えると氷雨は満足そうに微笑んだ。彼女の心から伝わって来たものが混じり気の無い安堵だったので、さとりは少々氷雨に対する認識を改めた。彼女の内側を支配するのは入り込む余地の無い絶対的な静寂では無かったのだ。揺らぎはある。それにしたって通常の人間からすればずっと小さいのだが。
「起き上がれますか?」
「はい」
 と半分持ち上がったさとりの頭を、女性の手が優しく膝に押し戻した。逆再生の映像のようにさとりは元の位置へ収まり、女性は改めてさとりの髪を撫で始めた。
「……あの、すみません」
 顔の動きでそれとなく手を払い、もう一度起き上がろうとしてみたが、再び膝に戻された。何度やってもそうだ。まるで起き上り小法師の逆だ。強い力で押しつけられている訳ではないのだが、何となく慈しむような手の心地よさに従ってしまう。加えてこの子守唄だ。さとりは母親に寝かしつけられている子供のような気分になって顔が紅くなった。
「鏡華様、困ります」
 氷雨が呆れたような口調で言った。鏡華と呼ばれた女性は何の反応も示さなかった。虚ろな目で虚ろな風景を見ている。聞こえているのか、そもそも聴覚があるのか、それ以前に意識があるのかも怪しかった。
 鏡華? 確か霊夢の記憶から聞き出した、雨音が懐いていたというお嬢様の名だ。
 思い出す最中に氷雨がさとりの手を取り、奪うようにして膝から起こし上げた。鏡華はさとりの残影を求めるようにしばらく己の膝を見つめ、やがて日の出と共に俯いた花弁を持ち上げる植物のように長い時間をかけて顔を上げた。佳人薄命を絵に描いたような人だなとさとりは思った。
「行きましょう」
 氷雨が言った。
「この人は?」
「気にしないで下さい」
「けれど……」
 物言いたげな目をするさとりに、氷雨は言った。
「いいんです。彼女はいるだけですから。心を失っているのです。何を生み出すも無く、何を奪うもありません。陽炎のような人です」
「確か、この人は久世家のお嬢様だったと思うのですが」
「本当によくご存知ですね」
 氷雨は表情豊かに感嘆してみせた。
「仰る通りです。本来であれば彼女がこの屋敷を治めるべき立場にありました。彼女が祭儀を仕切り、久世の血を守らねばなりませんでした。しかしそれは無理です」
「心が無いから、ですか?」
「いいえ。確かに彼女が心を失くしていなければ、屋敷もここまで荒廃はしなかったでしょう。しかしそういうことではありません。彼女にはきっと初めから無理だったんです。まあ、今となってはどうしようもありません」
 氷雨は鏡華の顔を眺めた後、取って付けたように言った。
「別に嘆いているわけでは無いのですよ」
「この人が動けないから、代わりに屋敷を取り仕切っているのですか?」
「違います」
「何故ですか?」
「そういうことではないからです」
「解りません」
「久世の血は絶えているのですよ。彼女も死人です」
 さとりははっとして振り返り、鏡華の昏い眼をまじまじと覗き込んだ。
 本当だ。死人だ。この魄動は生きた人間のそれではない。どうして気付かなかったのだろう。触れ合いまでしたのに。恐らく今まで散々怨念を浴びたが為に、こうした静かな霊に対する感受性が鈍っていたのだろう。さとりはいささか自分の感覚を信じられなくなった。しかし他に信じるものも無い。鏡華はさとりの顔を不思議そうに見ていた。好奇心の消え去った仔猫のような眼だった。
 さとりは氷雨に向き直ると小声で言った。
「……この人は、自分が死んでいるということを?」
「それどころか、自分が何者であるのかも解っていません」
「死んで、心を失くしてしまったのですね」
「いいえ。心を失くしたから死んだのです」
 さとりは目を鋭くして氷雨を覗き込んだ。質問を繰り返しながら心を探ってはいるのだが、思ったような成果は得られない。彼女の裡なる静寂は崩れない。この少女もまた無心なのだ。この屋敷にまともな心を持った人はいないのだろうか。改めて思うが彼女は人か? 自覚のある亡霊ではないのか?
「私のことをお疑いですね」
 氷雨はくすくす笑った。
「当たり前です。信用してくれとも申しません。それでいいのです」
 さとりは少々躊躇った後、訊ねた。
「……貴女は人間ですか?」
「はい」
「本当に?」
「人か人でないかがそれほど重要ですか?」
 彼女の台詞が嘘でないことは解るのだが、それでもさとりには腑に落ちない部分があった。氷雨が続ける。
「それよりも、相手がどういう性質のものであるのか探る方が意味のあることのように思います」
 さとりが無言でいると、氷雨はにっこり笑った。
「だから貴女は素晴らしいのです。死者が恐ろしいというのであれば御安心下さい。私は死人ではありませんよ」
 氷雨が何を知って素晴らしいと言うのかさとりには解らなかった。これが普通の人であれば心を読んで真意を汲み取ることも出来るのだが、彼女の心からは言葉を補うことも出来ないのだ。
 さとりは氷雨と初めて対峙した時の不安を思い出した。あの不安はきっとここに起因していたのだ。心を読めないという単純な理由に。自分が如何に能力に頼って生きて来たのか思い知らされたようだ。
「私をどうするつもりなの?」
 諦めたような声で言った。
「一先ずは浮獄へお入りいただきます」
「ここにいては駄目?」
「いけません」
 氷雨は穏やかに言った。穏やかながらも彼女の声には人を誘導する明解さがある。
「以前にも申しました通り、この屋敷のどこよりもあの籠の中が安全なのです。巫女の安寧を護る為に作られたものですから、悪しものは戸を開けることが出来ないのです。あの籠目はあらゆる外側の害悪を、霊も、音も、意識すらも絶ちます。不安な心中はお察しします。けれども、一度入ってしまえば不安に思っていたのが悔やまれる程の居心地であることは保証しましょう。きっとお気に召すと思います。綿津見のように静かで、山津見のように安らかです」
 一呼吸おいてからさとりは答えた。
「でも、ここにいたいの」
「そうですか」
 氷雨は微かに迷うような仕草を見せ、置き物のように座る鏡華を横目で見やると、またさとりの顔に目を戻した。
「解りました。ではこちらでお寛ぎ下さい。何卒出歩かぬよう御頼み申し上げます」
「ありがとう」
 氷雨は一礼すると斜向かいにある背の低い扉から出て行った。方向的に鐘の廊下に渡されていた板の上に出るのだろう。

 残されたさとりは鏡華の隣に腰を下ろした。鏡華はほぼ自動的にさとりの肩を抱き寄せ、膝の上に寝かせた。さとりも抵抗しなかった。長い間無言で肌に触れる優しい手の感触を確かめていた。
「彼女はあなたのことを、居ても居なくても同じ人だと思っていました」
 頭を撫でられながらさとりが言った。
「けれど、私はあなたがここにいてくれて凄く安心しました。どうもありがとうございます」
 鏡華は何の反応も示さなかった。泣き続ける柳のようにさとりの頭を延々と撫で、空と空の境目を滑る風のような孤独な声で歌った。
 さとりは目の前に並んだ着物を一つ一つ眺めていった。鏡華の美しさにも引けを取らぬ見事な着物だった。しかしもう二度と誰かに袖を通されることは無いのだろう。主も着物も既に死んでいるのだ。
 きっとこの人も心を失くす前は、毎日鏡の前に立って、着物選んで、それに合う帯を選んで、髪を綺麗に結いあげて、あの琴を弾いて、本を読んで、子供たちの相手をして、笑って、怒って、泣いて、そういう彩りの暮らしをしていたのだろう。
(あ、子供……)
 さとりの脳裏に幻のような映像が浮かび上がった。
(そうか、子供がいたんだ……)
 それはからっぽの心に辛うじて残った幽かな影そのものだった。彼女に残された最後の欠片だった。
 影は四つ。幸福に包まれた健やかな笑みを浮かべる鏡華自身。その傍らで少し照れくさそうに彼女の手を握る聡明な顔をした男性。男性に良く似た優しい眼差しの青年。青年の隣でにこにこと幸せそうに笑う巫女姿の三つ編みの少女。決して叶うことの無い家族の肖像だ。
 さとりの目から涙が溢れ、顔を真横に流れていった。この人は待っている。ひたすらに愛する人との再会を望んでいる。
 喉の奥から徐々に嗚咽が漏れ、やがて堰を切ったようにしてさとりは咽び泣いた。ああ、狂う筈だ。何も無いんだ。からっぽなんだ。誰もいないんだ。
 鏡華は相変わらず虚ろな眼で、泣きじゃくるさとりを撫で続けた。




続く
くおんにねむる | 【2012-09-16(Sun) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(2)
コメント
初めまして。
まさか東方と零のクロスオーバーが見られるとは思いませんでした。

ずっぽりと夢に引き込まれたままのさとりと雨音。
ゲームの方では起きた時と寝た時が交互に挟まれるので、そっちは店主の役割でしょうね。

しかし、咎打ちを喰らって死んだ彼女が何故生きて幻想郷にたどり着いたのか?
氷雨が生きて(?)存在しているという事は、時雨と水面に儀式を施してから彼女が狂死する前の間にさとりが紛れ込んだとか?
この屋敷の最後の住人は氷雨ですしね。
もし巫女の代役が出て来たとあれば儀式を目論むのも無理はないでしょう。
さとりが覗いた感じでは既に正気と狂気が綯い交ぜになっている感じですので固執するのも当然かと。
着物の間から覗いていていたのは誰なのか。着物+長い髪は彼女しか思いつきませんが……。
2012-09-10 月 15:35:38 | URL | taka #8iCOsRG2 [ 編集]

二十の感想

鏡華は既に死んだ身ですか。
ならば氷雨はどうなのでしょうかね。本人は職務の遂行が出来れば死んで様と生きて様と関係ないと言い切りそうですけど。
彼女の言動からすれば、屋敷の機能は殆ど喪失しているようですが、巫女を欲するからにはまだ手段があるんでしょうかね。
後、今回のさとりの記憶覗きで確信が出来ましたね。彼女は彼女だったんですか。
2012-09-21 金 09:56:54 | URL | taka #8iCOsRG2 [ 編集]
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