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琥珀の邂逅



 太陽が一日の務めを終えいつも通りの夜がやって来た。霖之助は横目で盗み取るように時計を眺めると、紅茶色に日焼けした本を優しく畳み、徐にカウンターから立ち上がる。玄関を半分開け、扉のプレートを「close」に直し、再びカウンターへ向かい本を開く。店内は暗く、手元を照らす読書灯の明かりだけが現在香霖堂における唯一の光である。
 霖之助は小さな夕焼けのような色に染まった指先で紐解くように頁を繰る。時計が硬質な音を刻んでいる。時が止まったような店中で、ただ一つ確実に時の経過を知らせる情報ではあるが、その無機質さが却って感覚を置き去りにしている。
 今日も客は来なかった。

 月が天の頂を制する頃、霖之助はようやく姿勢を崩した。軽くストレッチをしながら時計を見ると既に日付が変わっている。霖之助は席を立ち、店奥の居住スペースに場所を移す。夜着に着替え袢纏を羽織る。布団を敷くがまだ眠らない。月見窓に背を預け、水底のような月明かりでもうしばらく本を読み進める。ランプを灯さなくとも十二分に明るい。
 縁側に出て空を見上げると、望月をいくばくか過ぎた楕円の月が、天に向かって穿たれた穴のように雲を照らしている。氷輪と称される月ではあるが、白無垢にも似た一点の曇りも無い純白な光は、とても冷たいと言い切ることは出来ない。
 霖之助は紅魔館に勤める銀色の髪の従者を思い出した。月の時間は止まっているのだろうなという気がした。時よ止まれ、汝は美しい。そのうちファウストを読み返してみようか。

 部屋に戻ろうと月に背を向けたところで、視界の端に金色の影を捉えた。咄嗟に向き直る。
 八雲紫だった。妖怪の賢者が縁側に腰かけていた。
 もちろん招いた記憶も無い。これから招く予定も無い。しかし霖之助の心には殆ど波風が立たなかった。明らかな不法侵入で、しかもどちらかと言えば苦手な客にも関わらず、ああ、いたのか、くらいの気持ちである。それは彼女のいる光景があまりにも自然だったせいだろう。池に魚がいて当然のように、空に鳥がいて当然のように、夜の香霖堂の縁側に彼女がいることは当たり前のことのように映った。そこに僅かの違和感も無かった。むしろ彼女が座っていることで香霖堂全体が薄い幻想の天幕で覆われたような、昇華された空気に包まれていた。
 紫自体もそうだった。彼女の輪郭を柔らかくなぞるように、月光で染めた水色の燐光が幽んでいた。そう見えただけなのか、それとも実際にそうなのか判別出来なかった。彼女は夜と月明かりに驚くほど調和していた。お蔭で霖之助は思考を再開させるのにたっぷり数十秒を費やした。

 何をしに来たのだろう?
 急な訪問者へ抱くべき最初の感情をようやく思い出した。別に紫の来訪自体は珍しいことでは無い。ある時は取引相手として、ある時は道具の使い方を教える講師として、ある時は話し相手として紫は香霖堂を訪れる。空間を自在に移動出来るという能力上、彼女が玄関を使うことは稀であるし、予告も無く突然目の前に現れ出たとしても最早驚かない。
 しかしこの時刻の来訪というのは経験が無い。もしや幻想郷の運営に関わるような重大な事変が起きて、急に何か道具が入用になったのかもしれない。だがそれならば真っ先に自分の目の前に現れ要件を告げるだろうし、そもそも彼女が自分に頼らなければどうにもならなくなるような事態が想像出来なかった。それに紫の静穏とした様子からは切迫感を感じない。
 何をしに来たのだろう?
 結局解らなかった。想像するだけ時間の無駄だ。人の心など初めから解らない。解らなければ訊ねてみればいい。霖之助が一歩紫に歩み寄ると、踏みしめた床板の囁き声が紫を振り向かせた。動線を十五センチも描けないような必要最小限の動作で彼女は振り返り、霖之助と目が合うと唇に繊細な微笑みを浮かべた。自分は立ち紫は座っているため、自然彼女は上目遣いにこちらを見る。普段よりもほんの僅かだけ余計に開かれたその眼に、霖之助は思わず足を止めた。街中で何気なく視野に入ったショーケースに突然心を奪われ、その場で足を止めてしまう感覚に似ていた。
 霖之助は内心の動揺を隠しながら何とか平静を取り繕って、口を開くと同時にかける言葉を見失ったことに気付いた。そのまま口を半開きにして、何かしらの言葉を紡ごうと頭を回転させたが、結局は一言も発せぬまま元通りに口を閉じた。綿菓子を作ろうとしてドラムに割り箸を刺したはいいが、綿菓子は筋一本たりと箸に絡まなかった、そんな気分だ。

 紫は微笑みを浮かべたまま、氷の入ったグラスを取り出した。それを傍らに置く。満月の滴のような丸い氷が、切子のオールドファッションドグラスの中でカラリと音を立てる。次いで細長い瓶を取り出し、怪訝な顔で彼女を見下ろしている霖之助に傾げて見せた。
 何の変哲も無いウイスキーだ。グラスは二つ。共に飲もうということらしい。
 八雲紫がウイスキーを飲む為に香霖堂へ?
 そんな筈はあるか。
 霖之助はますます訝った。あの八雲紫が、世にも名高き妖怪の賢者が、ウイスキーを飲むためだけに香霖堂へ? 考えれば考えただけ不信感が湧いた。何故わざわざここへ来る必要があるのだ。飲みたければ一人で飲めばいい。それが嫌なら式にでも相手を頼めばいい。
 だが彼女はここにいる。真夜中に供の者も付けず人目を憚るようにして目の前に現れた。まるで逢瀬だ。恐らく何か自分に用事があるのだろうことは想像に難くない。ウイスキーはついでだろう。
 問題はそれが何かだ。個人的な道具の制作依頼程度の話であればまあ良い。暖房費の値上げの通達でもまだ良い。あるいは自分の気付かぬ内に、何か大変な失態を犯してしまったのかもしれない。これから七日七晩続くような説教が始まるかもしれない。勘弁してほしいが、それでもまだ良い。だが倉庫の中のあれとか、唐櫃の中のあれとか、隠し棚の中のあれとか、地下室のあれとか、屋根裏の仕掛け扉のあれとか、もしや草薙之剣の存在がばれただとか、そういう話であったのなら非常に都合が悪い。最悪、郷内の秩序を乱すとして回収されてしまうかもしれない。それだけは何としてでも避けなければ。

 紫は瓶の蓋を開け、氷が半分浸る程度の量をグラスに注ぐ。とくとくと年老いた兎の鼓動のような音が小さく響く。注ぎ終わると丁寧に蓋を閉め、グラスの一つは手元に、もう一つを霖之助へと差し出す。
 霖之助は棒立ちのまま、掲げられたグラスを見て幽かに眉間に皺を寄せる。
 紫は思考を見透かすように、それでいて全てを受け入れるような柔らかな眼差しを彼に向ける。
 飲んでもいいものだろうかと霖之助は逡巡する。手土産を用意してくれたのは嬉しいが、なにせ相手が相手である。その裏の意図が読み取れないうちは迂闊に手を付けるべきではない。仮にこの酒に口を着けたが最後、何らかの契約が交わされたと一方的に見做されてはたまらない。彼女の行動に他意は無いという確証を得てからでないとこのグラスを取るのはリスクが高い。
 しかしだからといって彼女の手を上げたままにしておくのも気分が悪い。これは純粋に好意かもしれないのだ。
 時折紫は何の利害にもならない気紛れのようなことをする。それは完全な存在の彼女が、完全な存在になってしまわないよう足掻いているようにも思える。あるいは完全な存在でいるために、不完全な側面を確立しているようにも思える。どんな物事であれ、それがあまりにも完全だと人々は魅力を感じることすら出来なくなってしまう。生と死の狭間以上の距離がそこにはある。だから紫は、なんとか自分を不完全に保とうとしている。そのために気紛れを起こす。起こさねばならない。そう霖之助は解釈している。今目の前に掲げられている真珠のような指先が気紛れの産物であるなら、その手の中のグラスを取っても差し支えない。
 彼女をどう捉えるかが問題だ。

 一通り考えを巡らせた後、霖之助はこの状況を気紛れと判断した。ビジネスの話がしたければ営業時間中に姿を見せただろう。今日は客が来なかったのだから話す時間はいくらでもあった。わざわざ閉店を待ったのは、自身の行動がプライベートであるとの示唆だろう。そして彼女がプライベートで香霖堂を訪うとすれば気紛れ以外に何があろう。そうだ、気紛れに決まっている。そもそも彼女とは二人きりで飲み交わすほど親しい仲でもない。
 霖之助はグラスを受け取り、紫の隣に腰を下ろした。紫はせせらぎのような動作で自身のグラスを取った。
 乾杯の言葉は何にしようかと霖之助は少し考えて、別にその必要も無いなと思いグラスを口に運んだ。硝子だと思っていたグラスは水晶製で、唇に触れた時驚くほど暖かい印象を残した。霖之助はその感触に目を丸くし、肝心のウイスキーを口に含む前にグラスを離し、月に照らして様々な角度から見上げた。
 紫は嬉しそうに彼を見ながらグラスに口付けた。グラスの傾きに合わせて彼女の顔が僅かに上を向く。髪が緩やかに波打ち一筋の飛沫となって透明な光を放つ。瞼が薄く閉じられ、女神の溜息のような長い睫毛が夜気に震える。額から眉間、鼻、唇、顎へと続く流線が反射した月明かりに浮かぶ。グラスの氷が日常に潜む小さな幸福を告げる鐘のような密やかな音を立て、琥珀色の液体が焦らすような速度で内壁を伝い、ようやく待ち望んだ唇に触れる。口に含まれ、飲み下される。白磁のような喉が室内音楽のように動く。胃に落ちた琥珀は甘い余韻となって彼女の表情に返る。唇の隙間から音も無く熱が漏れる。

 霖之助は呆然と紫に見惚れていた。ただグラスを傾けただけだ。ただ酒を一口含んだだけだ。たったそれだけで魅了された。それを誤魔化そうとも思わなかった。心臓が火花で彫刻されたような気持だった。この瞬間、彼女に見惚れない人間はいないだろうという確信があった。人間どころか土も草も木も、そこに隠れる鳥も獣も虫も、風も雲も月も、何万光年離れた名も知らぬ星でさえも紫に見惚れただろう。ただ酒を飲んだだけの彼女に。
 霖之助は手の中のグラスに目を移し、紫と同様に口へ運んだ。もちろん紫と比べればその傾け方は随分雑だった。けれど比べることが馬鹿らしくなるような相手なのだ。こちらはこちらで好きに飲もうと決めた。
 唇に触れた口径の広いオールドファッションドグラスはウイスキーの持つ蕩けるような芳香を残さず鼻腔に届けてくれる。とろりとした粘度の高い液体が流れ込み、唇と舌先に幽かなアルコールの刺激を与え、口内の温度によって潜在させた味と香りを爆発させる。飲み込んでしまうのが勿体無い。せめて余すことなく風味を味わうために、自然と両目を閉じてしまう。飲み込むと同時に喉の奥に染み込むような熱を残していく。後には百年前の恋人のような懐かしく甘い香りが残る。
 小さく息を吐く。いい酒だなと思った。ウイスキーはあらゆる酒の中でも飛び抜けて優しく甘い。美味い酒だ。ここで美味い以外の表現が思い浮かばない自分の語彙の貧しさが悔しい。だが言葉で飾れば飾る程、却って本質からは遠ざかってしまうような気もする。だからこれでいい。
 美味い酒があって、それを美味いと感じる。非常に純粋で素直な契約だ。世の中がこのくらい単純であればいいのになと思った。いや、それはそれで面白くない。

 紫を見た。紫はどことも知れぬ遠くの空を見ていた。霖之助は酒を褒めようかと思ったが止めた。下手な言葉でこの空気を壊してしまうのはあまりにも無粋な行為に思えた。風のさやぐ音だけが唯一この場に許された音楽だった。
 霖之助も遠くの空を見た。紫がどこを眺めているのか見当が付かなかったので、適当な星に当たりを付けてそれを眺めた。これほどまじまじと一つの星だけを眺めたことなど無かった。星を見ながら何を考えればいいのか解らなかった。初めは星に関する雑学を思い出せる限り思い出してみた。だがそれも諦めた。
 すると心はそれを待ち侘びていたかのように、どこまでも静かに空になっていった。細波すら立たない水面のように、やがて心は水鏡となった。
 こういうのも悪くない。何も考えず、何も思考せず、ただ目の前の光景を子供のように純粋に捉え、そして酒が美味い。霖之助の思い描く理想の酒の飲み方に近かった。
 時々思い出したかのようにグラスを傾ける。融けた氷とウイスキーが比重の違いから美しい対流を描く。からん、と氷が鳴る。一口飲んでは、また手を休める。
 隣でも氷が鳴る。それを聞いて、霖之助は自分が一人では無かったことを思い出す。横目で紫を見る。彼女も一口飲んでは、長く休んでを繰り返す。
 本当に、ただ酒を飲むためだけにここへ来たのかもしれない、と霖之助は思った。当初抱いていた不信感は一欠片も残さず消えていた。それどころか霖之助はこの空間に居心地の良さを感じていた。癒されてすらいた。これほど穏やかな夜も久し振りかもしれない。二人でいながら、まるで一人でいるかのようだ。日頃あれほど苦手と公言していた紫といざ二人になって、癒されるとはどういうことだ。霖之助は自分が少し可笑しくなった。
 きっと目の前の紫は賢者としての紫では無いのだろうなと説明付けた。役職から離れ、家からも離れ、恐らくは種族からも離れた、ただ一人の女として切り取られた彼女がここに来ているのだろう。
 わざわざ僕の元へ?
 光栄だが立場が違い過ぎて現実感が無い。きっと消去法で選ばれたのだろう。静かに酒が飲めそうで、かつ癒着を疑われない程度に離れた位置にいる人、そんなキーワードで。彼女との関係はそのくらいが良いのかもしれない。他人のままでいる方が気軽に付き合えることもある。これがもう少し近かったら。
 近かったら、どうするのだろう?

 霖之助は酒を飲んだ。見るともなしに月を見た。グラスの中の月は驚くほどの透明度で、時と共に滑らかに消えていく。琥珀色は薄れ、濃密な口当たりと引き換えに香りの広がりを増していく。こちらの時は止まらない。けれどなかなかのものだろう? 一体誰に対して得意になっているのか解らない。月にかもしれない。だとすると自分は月の魔力に呑まれているのだろう。
 月を見るのと同じ目で紫を見る。綺麗だなと思う。世辞でも何でも無く素直にそういう感想が出てくる。氷が冷たいのと同じように、ウイスキーが甘いのと同じように、紫は綺麗だ。この光景を絵に出来たらきっと何世紀も受け継がれて残るだろう。額縁の前で人々は足を止め時を忘れるだろう。そういうひとが隣にいる。夢だと言われた方が現実味がある。
 見られていることに気付いた紫がこちらを向いた。よく観察しなければそれと解らないようなほんの僅かな赤みを頬に差して、月を見るのと同じ顔で微笑んだ。霖之助は自分でも驚くほど素直に微笑み返した。そしてまた二人で遠くを見上げた。

 どのくらいそうしていたのか解らない。最早時などどうでもいい。たった一杯のオン・ザ・ロックは順調に嵩を減らして、やがてグラスの中には一回り小さくなった丸い氷だけが残る。
 グラスが置かれたのはほぼ同時だった。
 二人とも余韻を楽しむように目を閉じる。目を開けると月は変わらず空にある。まるで何十年も昔から夜だけが続いて来たかのように浮かんでいる。
 紫はいなかった。グラスも消えていた。
 霖之助はしばらく動かず、夢の残響に身を浸すように空を見上げた。名残惜しさを感じたわけではなく、ただそうしていたかった。


 それから何度か紫と会ったが、あの夜の出来事が話題に出されることは無かった。霖之助も取り立てて話題にしたいとも思わなかった。口に出してしまえばたちまちあの夜の幻想が破れてしまうような気がしたのだ。紫は相変わらず泰然自若とした笑みを浮かべ、霖之助は宿題を忘れた子供のようなやや引きつった顔で答える。それ以上のことは今のところ起こっていない。
 あれはやはり気紛れだったのだろうと霖之助は思う。数億年に一度の気紛れか、月に中てられた幻想だったのだろう。もしくは本当に夢だったのかもしれない。
 だが胸の奥に秘匿された神話のような夜の記憶は、時折宵闇を通して甘い余韻を残していく。霖之助は彼女の気紛れが再び起こることを密かに待ち望んでいる。




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                               終   20120114
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その他 | 【2012-02-15(Wed) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
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