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あめふら

Author:あめふら
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pixivで描いた漫画をまとめました。


『OVERCOLL2』 とらのあな
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『レジンフィギュア・物部ハト』 とらのあな

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香霖堂奇譚 第六話  紫煙羅(後編)
紫煙羅(前編)の続きです。未読の方は先に前編をお読み下さい。




 里に着いた二人は幽霊が出現した具体的な場所を求めて聞き込みを始めた。もともと里はその噂で持ちきりであったし、情報が集まるのにそれほど時間はかからなかった。いくつかの通りと辻を拾い上げ、慧音と霖之助は白い息を上げながらそのルートをなぞって歩いている。
「やっぱりね。それとなく聞いていたんだが、目撃が集中する道筋は羅宇助さんが生前よく利用していた道らしい」
「生前って言うな。あの人はまだ生きているんだ」
「そうだね。生魑だ」
 霖之助は黒い外套に狐色のマフラーを巻いて、寒そうに手をポケットに突っ込んでいる。時々冷たい風が通り抜けて二人は鼻の頭を赤くする。雪は降っていないがかえって寒い。冬は雪が降っている方が暖かいのだ。
「私、思うんだが」
 と慧音は霖之助を見上げる。
「みんな魂が彷徨っているとか言うけれど、助六さんが目覚めない理由っていうのが、それなんじゃないかな。つまり意識が迷子になっているんだ。だから、よく解らないけれど、魂が体に戻ることが出来れば、助六さんは目覚める気がする」
「そうだよ」
 霖之助はまるで見て来たかのように答える。
「じゃあ、どうにかして魂を助六さんの所まで誘導してやればいいのか」
「まあそれは後にして、とりあえず今は確認だ」
 目撃例の多い地点の一つに辿り着いて二人は足を止める。
「でも確認と言ったって何をすればいいんだ? 雪も積もっているし、とっくに踏み均されているだろうし、焦げ跡なんて見えるかどうか」
「普通に歴史を読んでくれればいい。過去の映像の中に火が見えるようであれば、それが幻火でないことの証明になる」

 果たして、実際に火はあった。
 慧音の捉えた過去の画面に幻は映らない。そのため噂の影は見えなかったが、煙と火は確かに見えた。
 それを霖之助に伝えると彼はしばらく考え込んだ。冬の路上で棒立ちとなって、どこを眺めているとも知らない目を見せる。一度、ちらりと慧音を見た。慧音はじっと彼が言葉を紡ぐのを待った。
 やがて霖之助が口を開いた。
「幽霊が火焔を伴うのは珍しいことじゃないんだ」
 首を傾げる慧音に、続けて言う。
「けれどそれが真の火であることは少ないんだよ」
「真の火?」
「陰火があったろう? あれには温度が無い。墓場を舞う火の玉だって、正しくは火じゃなくて光源だ。触れても熱くない、燃え広がらない。普通、陰体はこうした偽の火を連れるんだ。でも羅宇助さんが連れているのは違う。本物の火と煙だ。これは場合によると本当に火事を起こすかもしれない」
「それは……まずいな」
「生前火の用心に勤めた男が死後火の怖さを教える為に火を点けて回っている」
 と、霖之助が朗読するように言う。
「何だそれ?」
「今適当に考えた物語。けれど十年後には案外本当になっているかもね」
「冗談でも酷いぞ」
 慧音が睨みつけると、霖之助はやけに真剣な眼をして言った。
「解決したい?」
 その眼が慧音を戸惑わせた。
 もちろん解決したいに決まっている。けれども彼のどこか光を欠いた視線から、まるで自分が試されているような印象を受け、慧音は思わず口を閉ざした。返答次第では取り返しのつかないことが起こるような不安が心に薄く覆いかぶさった。普段と同じ声の中に、迂闊に答えてはいけないような奇妙な重さがあった。
 しばらく間を置いて、慧音は言った。
「当たり前だ」
 結局、考えたところで答えは出ているのだ。
「それじゃあ用意してもらう物がある」
 と霖之助はいつもの調子に戻って言う。
「まずは蚊帳。それと香炉と、山盛りの煙草」
 想像もしていなかったものを要求された。蚊帳? 夏に使う? それならば納戸にしまってあるが。
「蚊帳はいいけれど、香炉と煙草は持ってないぞ」
「じゃあそっちは僕の方で用意しよう。で、もう一つ、これが重要なんだが」
「なに?」
「羅宇助さんの体。これをどうにかして煙草屋まで運んでおいてほしい」
 慧音は唖然とする。
「無茶を言うな! 出来るわけ無いだろう! 第一……いや、そんな、どうやって?」
「どうにかしてくれ。僕が行くより、君が言った方が話は通る筈だ。正直に事情を話して手伝ってもらえばいい。それじゃあ今晩一時くらいに煙草屋に行くから、それまでに宜しく」
「え、今からじゃないのか?」
「幽霊を相手にするなら深夜の方がいい」

 霖之助と別れた後、慧音は一通り途方に暮れた。溜息をつき、空を眺め、上空に漂う雪を確認したところで、とりあえず自宅へと歩を進めた。歩きながら、助六さんの面倒を見ている常連方へどういう説明をしたものか言葉を選んだ。止めるという選択肢は無かった。私が言い出したことなのだから、多少無茶でもやらないわけにはいかない。それに希望もある。今晩行われる何かを上手くこなすことが出来たら、きっと助六さんは目覚めるのだから。

  ◇

 夜が訪れた。冬の凍てついた夜空は星の光を透明に透かして、穴の開いた天井を通して、焼け落ちた煙草屋の中から空を見る慧音の眼に光を届けた。
 寒い。ほとんど吹き晒しのような建物だ。コートを着込んでも手袋をしても寒いものは寒い。自分を抱くように小さく丸まりながら、煙と見紛うような白い息を吐いて、布団ごと運ばれてきた羅宇助の呼吸をちらちら確かめる。布団が上下するのに合わせて、羅宇助の鼻から蒸気口のように息が上がる。こうして移動する空気そのものが見えると、人が当たり前に呼吸をして、当たり前に生きていることがよく解る。普段自分の呼吸など意識しないから、それが奇妙なほど新鮮に思えてくる。長い間、慧音は羅宇助の呼吸を見ていた。規則正しく、時計のように布団が浮き沈みする。
 よくみんな助六さんを動かすことに同意してくれたなと、慧音は思い返す。夕刻、慧音は羅宇助の下へ向かい、当番の男に羅宇助を動かしてもよいか、手を貸してくれるか頼み込んだ。当然最初は拒否されたが、「彷徨う彼の魂を、体に戻してやりたいと考えている」と伝えると男は表情を変えた。その後、他に数名の男が集まり、やがて常連のほとんどが集まり、長い会議の末に慧音の案に同意した。こうやって寝かしつけていても、恐らく事態は好転しないであろうから、というのが総意であった。
 常連たちは布団を担いで、行列をなして煙草屋へ向かい、そのまま寒いのも気にせず夜が更けるまで談笑していた。慧音を夜遅くまで一人で置いて行けないという心遣いもあったのだが、それ以上に、皆この場に集まれるのが嬉しそうだった。
 かくして数日振りに煙草屋が賑わいを取り戻した。煙草を吸わない慧音は風通しの良い所にぽつんと座って彼らの話を聞く一方だったが、次から次へと話が途切れず、騒がしく、笑顔を絶やさぬ空間は、居心地が良く楽しかった。自分が煙草に手を出した来歴を語り、この店を初めて訪れた思い出を語り、そこで出会った人々を語る。普段口を利いたことも無いような人が気軽に話しかけてくる。ただ煙草を吸っているというだけで、同じ空間に居るというだけで、そこには何か特別な繋がりが生まれるらしかった。改めて彼らの仲の良さに驚いた。みな煙草が好きで、同じくらいこの店が好きなのだ。肌にひしひしと感じる愛情は、慧音を始終微笑ませていた。このコミュニティが無くなってしまうのは少し淋しいなと思った。
 やがて約束の時間が近づき、慧音は彼らに無理を言って頭を下げ、煙草屋を去ってもらった。皆残ろうと言ってくれたが、真の火と煙を伴った霊体を招くのだから、万が一累が及ばぬとも限らないと納得させた。
 そして今、慧音と眠る羅宇助がたった二人で煙草屋に残っている。
「うー……寒いっ」
 手を擦り合わせながら呟く。霖之助はまだ来ない。

 しばらくして霖之助は嫌味なくらい時間通りに現れた。待たされた身としては文句を言いたいところだが、それが出来ないのが悔しい。
「ちゃんと羅宇助さんもいるね」
 挨拶もそこそこに、霖之助は早速羅宇助の枕元に腰を下ろして、その顔をまじまじと観察する。目に見えぬ何かを確かめるように、落ち窪んだ老人の瞼や、痩せ細った首筋を触る。時に撫で、時に叩く。
 羅宇助は微動だにせず、蝋人形のように反応が無い。霖之助の顔はどこか鋭いものに変わっている。
 慧音は霖之助の行動がどういう意味を持つのか解らなかったが、彼につられて真剣な面持ちでそれを見ていた。
「蚊帳は?」
「持ってきたよ。ほら。ちょっと埃っぽいかもしれないけれど」
 慧音は綺麗に畳まれた蚊帳を手渡す。霖之助はそれを広げて、破れや解れが無いか流し見た。
「まったく、夏以外に蚊帳を出すなんて初めてだよ。何をするつもりなんだ?」
「準備さ」
「答えになっていない」
「さて、君にやってもらいたいことがある」
 霖之助は振り返ると、両掌に収まる程度の四角い箱を慧音に渡した。暗くてよく見えないが、十分に使い古された香炉のようだ。慧音には香を焚くという習慣が無いので、果たして今手の中にある物がどの程度の価値を有する物なのか判別付かなかったが、彫刻とはまた違うざらざらとした表面は歴史を感じさせた。そういえば初めて古道具屋らしい品物を見た。
 蓋を開けると中にはぎっしりと煙草の葉が詰まっていた。霖之助がおもむろにマッチを取り出し、山に火を点ける。ちりちりと草の焼ける音が聞こえ、一筋の煙が空に向けて昇った。煙草特有の頭痛を誘発するような香りがする。本当に正直に言えば、慧音はこの匂いが好きではない。だがらといって今どうする訳でも無い。訴えたところでやることは変わらない。それはそれ、これはこれである。
「それを持って、ここを出て、昼間の道をぐるりと回って、またここに戻ってきてほしい」
 と霖之助が言った。
「それだけでいいのか?」
「基本はね。ただしいくつか条件がある」
 霖之助は指を順番に立てながら、
「まず走らないこと。次に道の真ん中を歩くこと。同じ道を二度通らないこと。そして歩きながら、八歩毎に火の点いた葉を落とすこと」
 と慧音に薬匙を渡す。慧音は不安げな顔で、
「どういう意味があるんだ?」
「簡単に言えば魂を誘導する回路を作る。魂に向かって、ちょっと用事があるので付いて来て下さいと言ったところで素直に来てくれることはあまり無いし、そもそも声が届いているかどうかも解らない。同じ場所を共有していても次元が違ったりするからね。だから道標を残してやる必要がある」
「それが煙草なのか?」
「この場合はね。羅宇助さんと関係の深い香りだから」
 首を傾げる慧音に、言葉を付け足す。
「匂いというのは人の無意識に訴えかける最も手軽な方法だ。剥き出しの意識である魂ならばなおさら効果が高い。まあ迎え火のようなものと思ってくれればいい。あれをもう少し的を絞って、縮小してやればこうなる」
「よく解らないけれど、とりあえず行ってくるよ」
「ああ、最後にもう一つ」
 と、霖之助は立ち上がった慧音を引き留める。
「戻って来るまで、決して後ろを振り向かないこと。何があっても、決してだ」

  ◇

「一、二、三、四、五……」
 呟きながら、夜の人里を一人歩く。
 些細な音が遥か山の向こうまで通り抜けそうなほど静かで、星と雪の明かりにより完全に真暗という訳ではないのだが、見渡す限り人為的な光は無く、まるで世界にただ一人取り残されたような寂しさが付きまとう。
「六、七、八……」
 と慧音は香炉から煙草を一匙掬い、足元に落とす。
「一、二、三、四……」
 再び数えながら歩き、それを延々繰り返す。その声はどことなく、自らを勇気付けるようでもある。
 夜の一人歩きはただでさえ淋しいのに、霖之助が最後に加えた一言が絶妙なスパイスとなって心を圧迫している。あんなことを言われたら、たとえそのつもりが無くても背後に神経を集中してしまうじゃないか。
 ここで振り返ったらどうなるのだろう?
 慧音は出来るだけ背後を気にしないように努めた。当然逆効果だった。
 自分のすぐ後ろを得体のしれない何かが滑るように付いてくる。いや、実際に付いて来ているのかもしれない。そんな妄想が次々に浮かんで背筋が寒くなる。今は妖の時刻だ。闇の中に目を凝らせば凝らすほど、何かが蠢いているのが見える。もちろん、そう見えるだけなのだと解ってはいるのだが、それでもその闇が、今にも不定型な触手をこちらに伸ばしてきそうではある。手の中にある香炉の固さだけが、気休め程度の安心感を与えてくれる。
「……寒い」
 気を紛らわすために呟いてみた。実際寒い。寒いというか冷たい。皮膚が強張り、油を点し忘れた扉のように関節の滑らかな挙動を邪魔している。知らず知らずのうちに歯を強く噛み合せていたり、各部に不必要な力が入って、余計に動作をぎこちなくさせる。時々意識して筋肉を解してやらなければならない。すると緩めた隙間に冷気が入り込んで、再度体を固めていく。その繰り返しである。最終的に体温は少しずつ奪われていく。まだ歩いているだけましである。足を止めてじっと留まっていたら、朝には足が地面と凍りついて取れなくなっているだろう。
 踏みしめた雪の冷たさが靴を透して爪先を犯す。帰ったらお風呂に入ろう。先日貰った蜜柑を浮かべて、ゆっくりと温まろう。温かな光景を想像すると不安が紛れる。恐怖心と温度は密接に関係しているのだ。
 ようやく半分まで来た。
 頭の中でルートを確認し、後ろを見ないよう不恰好に角を曲がる。人が見れば不審に思ったかもしれないが、幸い人はいない。
「一、二、三、四……」
 これで本当に助六さんの魂を誘導出来ているのだろうか? 定期的に落としている煙草の火も、地面が雪なのだからすぐに消えてしまいそうな気がするが、しかしそれを確かめる術も無い。きっと大丈夫なんだろうと信じるしかない。
 たまに我に返ったかのように、何故私はこんなことをしているのだろう、という内なる声が響く。霖之助に言われるがまま、詳しいことは何も聞かされずに動いている。
 ふと、何だかんだで彼のことを信頼している自分に気が付いて可笑しくなる。彼のどこにそんな要素があっただろうか。いや、信頼というよりか、慣れかもしれない。
「一、二、三、四……」
 やがて煙草屋が見えた。思わず安堵の笑みを浮かべて、俯きがちだった視線を持ち上げる。香炉の中身は半分ほど減っていた。むしろ半分も残っていたことに驚きである。想像以上に大容量だったようだ。しかし香炉が大容量である必要はあるのだろうか。ひょっとするとこれは本来香炉では無いのかもしれない。まあ、今更そんなことを考えたって仕方が無い。最後の直線を気を引き締めて歩いた。

 煙草屋の焼けた門をくぐると、ようやく心が軽くなった。肩を小さく弾ませ、闇と共に引き連れてきた恐怖の塊を溶かすように長い長い安堵の息をつく。しかしまだ振り返ろうとは思わない。
 香炉を置くと指がそれを持ったままの形で固まっていた。掌を結んでは解き、感覚を取り戻していく。
「おかえり」
 店内に蚊帳が張られていた。その中には羅宇助が寝かされ、燈明を挟んで霖之助が坐している。中央にはもう一つの小さな香炉が置かれ、そこから発生する煙が局地的に霧が発生したのかと疑わんばかりの濃度で満たされている。
「もう振り返ってもいいか?」
「まだ駄目だ。そのまま蚊帳に入ってきて」
 言われるがまま蚊帳を潜って、慧音は思わず噎せ返った。満たされていたのは例によって煙草の煙だった。それに加え、どこか甘いような香りが混ぜられている。恐らくは霖之助が独自に配合したのだろう。何にせよいい匂いとは言えない。目が刺激され涙を浮かべた。
「な、なにこれ?」
「煙草に、少しだけ反魂香を混ぜたもの」
「反魂香!?」
 慧音は目を丸くする。
「……本物?」
「ああ」
 反魂香とは名の通り、焚くと死者の魂を呼び寄せることが出来るという香である。慧音は感心を通り越して諦めたように息をつく。
「本当、どこからそういう物を仕入れてくるんだよ」
「これは仕入れたわけじゃない。自作だ」
「自作っ!?」
 慧音が叫ぶ。
「でも、やっぱりというか成功はしなかった。辛うじて反魂香の粗悪品と呼べるような物が、ほんの僅かに出来ただけだった」
 それにしても驚きである。霖之助は付け加えるように、
「そりゃそうだ。そう簡単に死者と会えてたまるものか」
 と言った。
 反魂香と聞いて、慧音は煙を吸うのがいささか恐ろしくなった。極力煙を吸わないようにと、努めて穏やかに呼吸をしてみたが無駄な抵抗だった。
「こんなに焚き染める必要はあるのか? なんだか燻されているみたいだよ」
 霖之助はよく平気だなと恨めしそうに睨む。煙が目に染みるので、どうしても目つきが悪くなってしまう。この蚊帳はもう駄目だろうなと思った。いくら干しても煙の臭いが抜けないだろう。服にも髪にも煙が染みる。帰ったら風呂と同時に、すぐ洗濯もしなければ。
 霖之助は無言で香炉に煙草の葉を足す。新たな白煙が逆さまの滝のように立ち昇る。二人の影が型紙のように煙の上に浮かんでいる。
 しばらく沈黙が続いた。

 不意に羅宇助の体が動いた。
 突然の出来事に慧音は跳ねあがって、眼は布団の上に釘付けとなり、その意味が呑み込めてくると固唾を呑んで動きを窺う。
 ごそごそと音を立てて寝返りを打つ。
 動いている。あの動かなかった助六さんが! 慧音の心が徐々に感動で満ちてくる。
 羅宇助の四肢にみるみる力が戻っていく。腱が指を動かし、その動作によって引き起こされた気流が煙を巻き込んで空中に螺旋を描く。
 やがて羅宇助は暖かい布団から離れることを渋るように体を伸ばして、ゆっくりと体を起こした。欠伸をして、今日もまたいつも通りの朝が始まるのだと言うように目を擦る。まだ眠りに引きずられそうな瞼を持ち上げ、目の前の慧音と霖之助に気付くと二人を不思議そうに見回した。

「おはようございます」
 慧音が上ずった声で言う。
「これは……夢か?」
 羅宇助がぼんやりとした口調で言った。
「……いや、これは……」
「おはようございます、助六さん。起き抜けにすみません。私が、解りますか?」
 慧音がにじり寄って訊ねる。
「ああ、先生……。先生がどうしてここに? これは……」
「あなたはもう七日近く眠り続けていたんです。火事があって……」
「火事?……ああ、そうなのか」
「とにかく、とにかく、よかったです。みんな心配していたんですよ。お店の常連の方々は特に」
 慧音が笑うと、羅宇助はよく状況が呑み込めていないながらも、慧音に合わせて笑ってみせた。
 ああ、いつも見る笑い方だ。黒い歯だ。
 慧音は思わず涙が出そうになった。慌ただしく霖之助を振り返り、
「霖之助、ありがとう。凄い、凄いよ、本当にこんな」
 霖之助はすっと指を上げ慧音の口を止めた。そのまま顔を羅宇助に向ける。
「時間がありません。香も残り僅かです。ご自分の身に何が起きたか、解りますか?」
 羅宇助は何度か瞬きをして霖之助としばらく向かい合った後、
「お前さんは見覚えがあるな」
「以前ここで刻みを買ったことがあります」
「おお、そうかそうか」
 と嬉しそうに笑った。そして蚊帳越しに変わり果てた自分の店をゆっくり時間をかけて見回し、
「凄いことになっちゃったなあ。こうならないように気を付けてきたんだが、燃える時は燃えるもんだ」
 と再び笑う。聞き取りやすい明朗な声には諦めたような響きが混じるが、卑屈さは無い。
「眠っていたのか、俺は」
 慧音が頷いて答える。
「俺の身に何が起きたか。まあ大体は想像出来るさ。年喰ってるからな。ただ、悪いが具体的な内容は伝えられない。伝えられないというか、解らないんだ。俺はただ、長い夢を見ていたよ」
 羅宇助は遠い目を見せた。
「内容自体は凄く短い。だから長いというのは奇妙だが、しかし長かった。俺が里の中を一人で歩き回っている夢だ。俺以外には誰もいない。人も、鳥も、虫すらいない。ある晩一瞬にして全ての生き物が滅び去って、俺だけが何かの手違いで残っているみたいだった。霧が出ていて視界が悪い。いや、悪いなんてもんじゃない。何も見えない。風呂に肩まで浸かるように、里全体が濃い霧の中に沈んでいる。どこもかしこも真っ白よ。俺はその中を歩いていたんだ。どうして歩いているのかは知らない。いつから歩いていたのかも解らない。ただただ何も考えずに歩いているんだ。少なくとも誰かを探そうとか、どこかへ行こうなんてことは思わなかった。歩くことに何の疑問も感じていない。ほとんど目が利かないのに足取りだけは非常に確かだ。時々霧が体中に絡み付いて、随分歩き辛くなった。一つ足を踏み出すのにかなりの時間がかかった。けれど普段通りの速度で歩いているという実感もあった。
 しばらくして、俺はどこかへ行かなければならなかったことを唐突に思い出した。そのためにこうして外に出てきたのだと、そこまでは思い出せたんだが、肝心の目的地がどうしても解らなかった。仕方なく俺は歩いた。ところが歩き始めたら、さっきまでと里の様子が違っていた。通りの真ん中に黒い煙の筋が伸びていたんだ。それを追って歩いていたら、俺の店に辿り着いた。そこで俺は、自分の店に行こうとしていたことを思い出したんだ」
「そして、目が覚めたんですね」
 慧音が言う。
「それは夢ではありません。かといって現でもありません。あなたは彷徨っていたんです。黒い筋道は彼女の作った道。霧だと思っていたものは、あなた自身が纏った煙です」
 二人の視線が霖之助に集中する。少し間を置いて、霖之助は続ける。
「肺を病んでいたそうですね。原因は何でしょう?」
「そんなもん、煙草の吸い過ぎに決まってるだろ」
 羅宇助はどこか勝ち誇ったように笑った。
「ですから、肺の中は丁度、この蚊帳のようになっていたのです。既に救いようも無いほど煙に侵されていました。ところで火事の時、この店に充満していたのは煙草の煙でした。煙草屋の火事ですからね。当然です。それがおかしな現象を招きました。あなたの体内と外の空間が、全く同じ状況になってしまったのです。煙草で侵された肺と、煙草で侵された店との境界が、限りなく曖昧になっていきました。その結果、外に飛び出したあなたの魂は、体の外にあるにも関わらず、未だ自分は体の中に居るものだと錯覚してしまったのです。そしてあなたは煙そのものとなった。自らを維持するために不可欠な火を引き連れたまま」
 慧音も羅宇助も黙って話を聞いていた。
 霖之助は長い息をついて、香炉の上に煙草を足した。これで霖之助が用意してきた煙草の葉は無くなった。
「目的地はここではありません」
「そうか」
 羅宇助は懐かしむように目を閉じた。安らかな表情だった。
「俺はもう死んでいるんだな」
「はい」
「えっ?」
 慧音が目を見開いた。何もない空中から突然石を浴びせられたような呆然とした顔を二人に向けた。
「火事の時かな?」
「はい」
「そうか」
 羅宇助は恥ずかしそうに微笑んだ。
「悪いな。だらだら生き残っちゃって」
「自分の命をそんな風に言える人を僕は知りません」
「そりゃあ、お前さんが若いからだろうな」
「あの……」
 と慧音が口を挟んだ。咽がからからに乾いているのは煙のせいだけではない。
「どういうことです? 何を……言っているんです?」
「体から魂が離れるということがどういうことか、考えてみるんだ」
 霖之助が言った。
「あの火事の時、多分、君が確認したあの咳き込んだ瞬間から、羅宇助さんは死に始めたんだ。けれど魂が煙に巻かれて、上手に死に切ることが出来なかった」
「お前、何を言ってるんだ? 助六さんは生きているじゃないか! ほら!」
「本当に生きる力があったなら」
 と、霖之助は優しく言った。
「蠑螈の膏薬で傷を治した時に目覚めていた筈だ。でも目覚めなかった。もう羅宇助さんの体には魂を繋ぎ止めておくだけの力が無かったんだ。今だってそうさ。香の力で辛うじて留めているだけだ」
「そんな……」
「潮時だよ」
 あまりにもあっさりと言った。それが慧音に終焉を実感させた。
 おわり?
 慧音は愕然として羅宇助の顔を見た。羅宇助は寂しそうに微笑み返した。終わりゆく自分の命を偲んで、というよりは、慧音に悲しい顔をさせるのが申し訳なくて、といった微笑みだった。
 慧音は霖之助に向き直り声を荒げた。
「じゃあ、じゃあ、その香を今から作ってくれ! 私も手伝うから!」
「無理だ。それに死んだ命を無理矢理繋ぎ続けるのは、本来あるべき姿と違う」
「違くないよ! だって、死んでないだろう!」
「元々俺は長くなかった」
 羅宇助は肺の辺りを叩いて言った。
「老人になるとな、毎日、死を意識しない日は無い。病を抱えていれば猶更さ。毎晩床に就いて考えるんだ。このまま明日の朝、目が覚めないかもしれないってな。それを毎日だ。毎日思う。そのうちにな、死ぬということに違和感が無くなってくる。それが当たり前だってことを思い出すんだ。生きていれば、必ず死ぬ。それどころか、俺たちは毎日死に続けている。煙草を吸ったり、馬鹿をやったりで、ゆっくりと堅実に死んでいく。でも同じくらい生き続けている。新しい俺が毎日生まれ続けている。生と死は、時々同じなんだ。それが知識じゃなくて、実感として解ってくる。だから、いいんだ。気にすることじゃないさ」
 孫娘に昔話を聞かせるような声だった。慧音は俯いて、
「……いいんだ、じゃ、ないです。あなたは今、生きているじゃないですか。お店の常連さんたちに会いました。皆あなたが大好きでした。もっとあなたと喋りたかったと言っていました。私もそうです。私は煙草を吸わないけれど、でも、生きていてほしいなと思ったから……」
「これしかないんだ」
 と霖之助が言った。
「終わったものをどうにかすることは出来ない。僕らが羅宇助さんの為にしてやれることは、もう一度、正しい形で、送ってやることしかない」
「死に直せるというのは幸福だよな」
 羅宇助が笑った。
 慧音はもう声を出せなかった。口を開こうとするたび、感情が溢れて咽を圧迫した。羅宇助の話も、霖之助の話も、頭では解っている。それしかないというのも真実だろう。どうしようもないんだ。でも、心がそれを受け付けない。
「お前さんは魔法使いかい?」
 羅宇助が霖之助に言った。霖之助は微笑んで、
「そう仰るならあなたこそ。元々煙草は新大陸で魔術に使われていた草だそうですよ」
「へえ。じゃあ俺も魔法使いだな。人々に煙と毒素を振りまく悪い魔法使いだ。へっへっへ」
 二人はひとしきり笑った。まるで酒を飲み交わしているかのような雰囲気だった。
 霖之助が香炉を覗き込み、言った。
「そろそろです」
「そうか」
 慧音がはっとして顔を上げる。気が付くと、蚊帳の中は随分煙が薄くなっていた。
「わたしは……」
 と、唇が震えて動かなかった。眼にはみるみる涙が溜まっていった。
「そんな顔しなさんな先生。美人が台無しだぜ。いやまあ、泣いている美人も好きだけどな」
 羅宇助が笑う。本当によく笑う人だ。
「いかがでしたか?」
 霖之助が訊ねる。
「楽しかったに決まってるさ。人は当たり前に生まれて、当たり前に死ぬ。でも、俺は俺の好きなことをやって生きてきた。そりゃあ、色々あったさ。やりたいことも、やり尽くしたかっていうと違うしな。けれどもまあ、満足だ。足りない分は来世で補うとするさ」
「それは重畳」
「ところで、この店どうするんだろうな」
「焼け残ったいくつかの道具を残して、取り壊すでしょうね。道具は恐らく、店の常連たちの手に渡るでしょう」
「ああ、それがいい。そうしてくれ」
 羅宇助は深く沁みるような声で言った。
「煙草、いかがです? 僕でよければご一緒しますよ」
「お、いいねえ」
 霖之助は店の引き出しの中から、焼け残った煙管を探し出し羅宇助に渡す。紙に包まれた刻み葉を取り出し羅宇助は手慣れた動作で草を丸め、雁首に詰める。マッチで火を点け、口に銜える。
 その姿がとても様になっている。
 霖之助も同様に、帯に差していた自前の煙管を銜える。
 煙管から立ち昇る煙が蛍の軌跡のように真横に流れた。
 羅宇助は満たされた顔で、深く、毛細血管の先にまで煙を巡らすように呼吸をした。時の流れが減速したかのようだった。人の心を穏やかにする、羅宇助の得意技だった。
「幸せだ」
 その呟きと同時に吐き出された煙の中で大きな蝶が羽ばたいたのが見えた。
 慧音が「あっ」と言って目で追う間もなく、蝶は蚊帳を通り抜け、穴の開いた屋根から冬の空へと旅立って行った。
 羅宇助の体が傾き、霖之助に受け止められた。両腕が沈むように力を失くしていった。
 羅宇助は死んでいた。
 雪が降ってきた。



「君は正しいことをしたんだ。こうして送ってやらなければ、最悪、火難を振りまく悪霊と化すおそれもあった。君は正しいことをしたんだ」
 泣き続ける慧音に、霖之助は言い聞かせた。
 彼女の頭を撫でながら、子供をあやす父親のように、何度も何度も言い聞かせた。
「君は、正しいことをしたんだ」




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                               終   20111229
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香霖堂奇譚 | 【2012-01-16(Mon) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(2)
コメント

内臓と家屋が同調する、って発想は斬新ですねえ
冷たさの中に温かな熱を感じるような、寂しくも心地よいSSでした
2012-01-21 土 23:49:20 | URL | #- [ 編集]

当たり前なんですよね。仕方ないことです。

自分もこんなふうにぽっくりいきたいです
2013-01-16 水 21:00:08 | URL | すかいはい #- [ 編集]
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