スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


スポンサー広告 | 【--------(--) --:--:--】 | Trackback(-) | Comments(-)
香霖堂奇譚 第五話  摩竭大魚



 連日、太陽は地面を焼いている。
 今年も夏がやってきた。蝉が全身全霊をかけて叫び、空はただ抜けるように青くて、息を吸うたび肺の中まで焼くような熱気が幻想郷全土を覆っていた。日をさんさんと受けて今が盛りと枝葉を振るう植物も、こう猛暑が続いては、張りを失い緑も色褪せぐったり首をもたげている。
 今年は比較的雨が少なく、しかし初夏の段階からかなりの気温を観測した。そのため里の古老の間では早くから真剣に水不足が懸念されていた。幻想郷は水に恵まれた土地である。だが恵まれてるとはいえ、その量はけして無限ではない。それほどに暑かった。みな戸も窓も開け放ち、水を打ち、少しでも風を招き入れようと躍起になった。けれどその風すら暑いのだからやりきれない。
 そうこうするうち僅かずつではあるが井戸の水位が下がっていった。懸念されていた水不足がいよいよ現実味を帯びてきた。かといって誰も対策を講じようとはしなかった。夏とはそういうものなのだ。わざわざ確認せずとも皆が知りすぎるほどに知っている。結局のところ、人はどれほど発展しようと自然には逆らえない。人々は口々に暑い暑いと言いながら、軒下に風鈴を下げ、川遊びに出かけ、夕涼みに縁側で月を見上げ、いつも通り各々の夏を満喫していた。

 上白沢慧音のもとに一人の女性が訪ねてきたのは、夏も盛りの八月上旬のことだった。
「突然の訪問をお許し下さい」
 と、その女性は言った。水琴のような、心に染み渡る声である。
 暑さで頭がぼんやりしていた慧音は慌てて居住まいを正すと、改めて彼女と対面し、その美しさに思わず惹き込まれた。水色の着物に薄衣を合わせ、肌の白さも相まって、まるで羽化したばかりの蝉のような透明感を漂わせている。長い髪を自然に垂らし、特別お洒落している様にも見えないのに、それが非常によく似合っている。自然美というのはきっとこういう人を言うのだろう。姿勢がよく、ただ佇む姿からも育ちの良さがありありと窺える。どこか浮世離れした、まるで仙女か何かのような。
 そこで慧音はおや、と思った。この人は誰だろう? このような綺麗な人を里の中で終ぞ見たことが無い。慧音は里人の多くと面識がある。だからといって里の全員を監視しているわけでは無いから、初対面の人間がいたとして左程不思議なことでもない。しかしこれほど美しい女性ならば、人づてに噂の一つくらい届いても良さそうなのに。まして名家の生まれらしい所を見るとなおさらだ。それとも最近越してきたばかりなのか。それならば余計に里人が騒がぬ訳がない。
 何にせよその女性は慧音に奇妙な印象を与えた。里の人間とは明らかに纏う雰囲気が異なる。まるで彼女の周りだけ重力が消え去ったかのようだ。見惚れていると、女性は長い睫を軽く伏せて、
「親切な里の方に、探し物を頼むならここが一番だと伺いました。お忙しいとは存じますが、少々お話を聞いて戴いてもよろしいでしょうか?」
「は、はい! あ、どうぞお掛けになって……」
 自然と慧音の背筋も伸びる。
「それで、一体どのようなお話でしょう?」

  ◇

「……で、何かと思ったらペットの捜索だって?」
 打ち上げられた水母のように、ぐったりと椅子にもたれて、しきりに団扇で顔を扇ぎながら霖之助が言った。
「笑うなよ」
 同じく団扇を動かしながら慧音は口を尖らせる。
「笑ってないさ」
「口元がにやけてる」
「ああそれは暑さのせいだ」
「何でも暑さのせいにすればいいってものじゃないだろう」
「いいや暑さのせいだよ。日が照るのも蝉が鳴くのも食中毒が流行るのも、夏に起こる大抵の出来事は暑さのせいで起こるんだ」
「言い過ぎだろう。確かに暑いけれど……」
 と、慧音は怠惰に息を吐く。
 霖之助の住む自称古道具屋「香霖堂」は雑多に物が置かれているせいで風通しが非常に悪い。おかげで今日のような暑い日には、熱気が更に篭って何とも不快になる。慧音は今までに何度、少しでもいいから風の通り道を作れと指摘したか解らない。その度に適当な言葉で流されて、結局今日まで改善されていない。
 風が通らないということは、塵や埃が積もりやすいということでもある。見れば背後に並ぶ商品に埃の帽子を被っていない物は殆ど無い。何とも不衛生だ。本人は古めかしさを出すための演出だと言っているが、実体は単に掃除が面倒なだけなのだと思う。そのくせ掃除してやろうとすると嫌がるのだ。面倒臭い男だ。彼と出会ってそこそこ経つが、未だに彼の性格を把握しかねている。玉虫色というよりか、そもそも実体が無いかのような錯覚を覚える。まるで逃げ水のようだ。
 それにしても、暑い。
「……去年貰った陰火はもう無いのか?」
 店内を見回しながら呟く。陰火というのは去年の夏に霖之助が手に入れた、水を火種に冷たく燃える、普通とは逆の青い火だ。
「あったら使ってるさ。あれは元々簡単に手に入る物じゃないんだ」
「でも、あの後少し調べたんだけれど、陰火ってつまり人魂のことなんだろう? それだったら、時々墓地の辺りを飛んでいるのを見たって言う人がいるけれど」
「違うよ」
「違うの?」
 霖之助は頷く。
「ああ。人魂は核に魂かその欠片が入っている。けれど陰火はただの炎。現象だ。人魂と違って意思は無い」
「てことは、人魂には意思があるのか」
「あるに決まっているだろう。まあ程度の差はあるけれどね。だから夜中墓場に忍び込んで、人魂を捕獲なんてしちゃいけないよ。それは拉致と同じことだ」
「しないよ。そんな怖いこと」
「そう。それでいい」
 まるで先輩が新人に物を教えるような声だった。
 彼は何歳なんだろう、と慧音は思った。外見的には自分より幾らか年上である。けれど実年齢はどうだろう? きっと髪の色のせいもあるだろうが、半獣の自分よりか、彼は随分老成して見える。仮に、実は還暦間際だと言われてもあまり驚かない気がする。もちろん見た目相応の年を言われても納得する。まるで彼には年齢という概念自体が存在していないかのように感じられる。ならば年を知りたいと探ったところで無意味なことだ。
 彼に関しては、こういうところが多かった。香霖堂に顔を出すようになって、世の中には随分不思議が溢れていると身をもって知った。だが一番謎めいているのは店主の霖之助その人だ。何故こんな所に住んでいるのか? このガラクタはどこから持ってきたのか? 知識は一体どこで手に入れたのか? 年齢は? 出自は? 本当の名前は?
 自分が無い人、ではないのだ。けれど情報が極端に少ないから、よくも悪くも他人と比較できない。彼をどうカテゴライズして処理するべきか解らない。世界のどこからも切り離されているような気がする。自由なのかもしれない。孤独なのかもしれない。それも解らない。霖之助と顔を合わせる度に、慧音の頭には泡のように疑問が浮かぶ。しかし、それを一々追求するのも何か違う気がして、そのため慧音の中で霖之助は、かなり中途半端な位置に漂っている。
「そういえば、今日は髪を結んでいるんだな」
「ああ、暑いから。思いきって切ろうかとも考えたんだけれど、周りから凄い反対されてな」
「そうだね。切らない方がいい」
「お前も長い方が好きな人か?」
「人によるね。君の場合はそれがいい」
 ふうん、と口の中でぼやきながら、ちらりと自分の髪に目をやる。悪い気はしない。
 どこか近くで蝉が鳴きだした。霖之助はうんざりして、
「本当、こう暑いと何もやってられないよなあ。僕も髪を切ろうかね」
 と、目を丸くした慧音に気付いて眉間に皺を寄せる。
「おかしなことを言ったか?」
「ん、いや、そうじゃないんだ。ただお前が床屋で髪を切っている姿が想像できなくて」
「まあ、自分で切ってるからね」
「へえ、器用だな。後ろの方とか上手く切れるのか?」
「さあ」
「さあ、って」
「後ろに目はないからね。適当にやっているよ。今まで苦情もなかったから、多分上手く切れているんじゃないかな」
「自分で切ってるんだったら、苦情を言うのも受けるのも自分になるんじゃないか?」
「じゃあ評判だ。悪い評判は聞いていないから、現状問題ない」
「ええと、それでは。その、おでこ出してるの、変だぞ」
 暑さゆえ、霖之助も前髪を結んでいたのだ。慧音に指摘されて、霖之助は少し悔しそうに紐を解いた。その様子が、寺子屋で男の子がふてくされて鉛筆を放り投げる姿に似ていて、慧音は思いがけず可愛いなと微笑んだ。
「私でよければ切ってあげようか?」
「心得はあるのかい?」
「多少はね」
「ふうん」
 是とも非ともつかない返事をされた。まあどうでもいい。少々間を置いて霖之助が訊いた。
「で、予算はどのくらいあるんだい?」
「予算? 何の話?」
 聞き返すと、霖之助は溜息交じりに、
「何って、ペット捕獲用の罠なり籠なりを買い揃えに来たんだろう?」
「え? ああ、そうか、そうだった。そっちだ」
 慧音は軽く頭を振って、髪の話題を隅へ追いやった。どうも話が脱線していた。彼曰く、これも暑さのせいなのだろう。
「その、ペットの捜索なんだが、ちょっとよく解らないことになってて……」
 と、慧音は手を揉んだ。

  ◇

 机を挟んで差向いに座った時、件の女性の左手薬指に指輪が光っているのが見えた。
「ご結婚されているんですね」
「はい。くるくるちゃんも元々主人の愛玩動物だったんです」
「……失礼、くるくるちゃん?」
「名前です。尻尾がくるくるしているんです」
「そ、そうですか」
 慧音は思わず苦笑いを浮かべる。すぐにはっとして抑え込んだが、女性は気にせずにこやかに微笑んでいる。気を取り直して慧音が続ける。
「そのくるくるちゃんがいなくなってしまったんですね?」
「はい」
 女性は目を伏せながら、
「普段、くるくるちゃんのお世話は主人がやっているのですが、主人が仕事で四日程家を空けることになって、その間私がお世話を代わることになったんです。けれど、くるくるちゃんは私よりも主人と共にいた時間の方が長いものですから、やはりというか、私より主人によく懐いていて、嫌われている、というわけでは無いのですが、時々言うことを聞いてくれないことがありまして……。それで、この機会にもっとくるくるちゃんと仲良くなりたいと思ったんです。四六時中触れ合ったりとか、普段主人があげているものよりも少しだけ豪華なご飯を用意してみたりとか、いつもより遠くまで散歩に行ってみたりとか」
「ああ、わかります」
「私は良かれと思ってやったのですが……」
 と、女性は寂しさを誤魔化すように言葉を切った。
「楽しんでいたのは私だけだったのかもしれません」
「くるくるちゃんがいつ頃いなくなったのか、大体でいいので見当は付きますか?」
 話題を変えるように慧音が言った。
「今朝の七時頃です。足を延ばして湖まで行ったんです。暑かったので、思う存分水遊びをさせてやりたくて。そうしたらそのまま……」
 と、女性は自らの行動を悔いるように、
「ずっと目を離さずにいたかと言われれば違います。けれど、離したのはほんの一瞬なんです。その一瞬の間に消えてしまいました。しばらく周辺を捜し歩いたのですが、どうにも見つからなくて」
「どこか、くるくるちゃんが立ち寄りそうな場所とか……」
「この近くでは思い付きません」
「そうですか……とすると、一番考えられるのは、隣接する魔法の森へ迷い込んでしまったか、或いは……」
「或いは?」
 と、慧音は視線を泳がせ、
「あの、少々言いにくいのですが」
「仰って下さい」
「湖で溺れてしまったということも……」
「それはありませんわ」
 女性が確信に満ちた声で言った。
「くるくるちゃんはとても泳ぎが上手なんです。溺れるなんてことは決してありません」
「そうですか」
 あまりにも自信満々に言うので、慧音はその後に続けようとしていた「万一」という言葉を飲み込んだ。
「解りました。では、こちらで出来る限り探してみます」
「本当ですか!」
「ええ。ですが、その、何分急なものですから、もしかすると御主人の帰宅に間に合わないかもしれませんが、ご了承いただけますか?」
「勿論です。元々私が一人で解決しなければならない問題なのです。人様の手を煩わせるようなことではないのです。ですから、もしくるくるちゃんが見つからなかったとして、それは私の責任ですし、こうして我儘に付き合っていただけるだけで、感謝以外の何物でもありません。本当にありがとうございます」
 女性は丁寧に頭を下げた。絹のようなしなやかな動作に、これほど綺麗なお辞儀をする人を見たことが無いなと慧音は思った。
「御主人はいつご帰宅になるのですか?」
「明後日の昼には戻ると聞いています」
「解りました。それでは、捜索は私に任せて、貴女は自宅で待機していて下さい。ひょとすると、自分から家に帰ってくるということもありますからね。もしくるくるちゃんが帰って来たようでしたらすぐに知らせて下さい。私も里人に、もし尻尾がくるくるした犬を見かけたら、その場でとどめておくように通達しておきます」
 女性は小首を傾げた。
「犬じゃありませんよ?」
「え? あ、ああ、失礼しました。ええと、猫ちゃんですか?」
「いいえ」
「あの、それでは一体?」
 恐る恐る尋ねると、女性はにこにこと屈託の無い笑みを浮かべて、当たり前のように答えた。
「魚です」

  ◇

「……」
「……」
 霖之助は呆れ顔で慧音を見ている。長い間、言葉が無い。やがて慧音が心底困った顔で沈黙を破った。
「……どうしよう?」
「出来ない依頼は断りなさい」
「だって……」
「だってじゃない」
「でも、何もせずにはいられないだろう。話を聞いて、約束もした訳だし」
「君は安請け合いしすぎだ。どう考えてもその場で断るべきだった」
 ぴしゃりと霖之助が言う。ぐうの音も出ない。要するに、湖でうっかり逃がしてしまった魚の捕獲が今回の依頼である。はっきり言って無理である。まして慧音は釣竿を握ったことすら無いのだ。霖之助は見せつけるような溜息をついた。
「その依頼主の女性は暑さで頭がやられていたんじゃないか?」
「それはない。対応も言葉もとても丁寧だったし」
「とするとその女性は、魚と肌で触れ合ったり、魚を散歩させて歩いたりするわけだ。そんなおかしな人がいるかね?」
「それが解らないから困ってるんだ」
 と、慧音も溜息をつく。
「話が終わった後、流石にちょっと思い直してな、見送ったばかりの彼女を追いかけたんだが、どこにも姿が見えなかったんだ。たまたま寺子屋の前にいた人に、どっちの方角に行ったか尋ねたら、私の他には誰も寺子屋から出てこなかったと言うんだよ」
「ほう」
 霖之助が多少興味を覚えたような顔で慧音を見る。促されるように慧音は続ける。
「それで午後を潰して彼女を探してみたんだ。立ち振る舞いと言動からして、きっと大きな屋敷を持っている人だと見当付けてな。けれど、里に大きな屋敷はそれほどないし、その住人の誰も彼女とは違った」
「全員と会って確かめたのかい?」
「うん。そのあと往来で人に尋ね歩いてみた。でも誰もそんな女の人のことなんて知らなかった」
「最初に彼女に君を紹介した人は?」
「会ったさ。何でも、見かけない人で、何か困っている様子だったから話かけたんだそうだ」
「ふうん。じゃあ誰なんだい、その女の人は?」
「それが解らない。これじゃあ、もし上手いこと見つけられても、どこに連絡すればいいのか解らないし……」
「見つける自信はあったのか」
「……無いけれど」
 と、自信なさげに目を逸らす。
「で、それが昨日の話。だから今日中か、最低でも明日の朝にはくるくるちゃんを見つけていないといけない。でも、こうなってくると、そもそもその女の人が何だったのかの方が気になって。悪い人では無いと思うけれど……」
「その人、名前は?」
「みくまり、と言うらしい。どういう字を当てるのかはちょっと解らないけれど」
「水分」
「ん?」
 霖之助はカウンターの上に指で文字を書きながら、
「水を分ける、で『みくまり』。川の分かれ目のことだ。或いは水を分ける境界そのもの」
「人名じゃないのか?」
「さあ。僕は初めて聞いた」
 慧音は低く唸って、しばらく考え込むように口を閉じた。
「しかし君の言うとおりだ。怪しいなその人は。いや人であるかが怪しい。度を超えた美しさというのもまた、よくある人外の特徴であるし」
「うー、私は何と約束してしまったんだろう?」
「悪い感じはしなかったんだろう? じゃあ大丈夫だ。わざわざ、見つけられなくても恨みませんとも言われているし、何も心配は無いよ。というか予めそんな風に言葉をかけてくれるのは相当珍しいぞ。大抵は一方的にお願いされて、本人も知らぬ間に約束されて、それを違えたら激怒して、最悪殺されてしまうこともある。でもその人はそうじゃないんだろう? 力の強大なものほど礼儀を弁えているものだから、そうだね、ひょっとすると」
「ひょっとすると?」
「単純に霊とかそういうレベルの相手ではないかも」
「えっ」
「仮定の話さ。とにかく君は約束したんだ。人間だろうが神だろうが妖怪だろうが、約束を破られていい気持ちはしない。せいぜい全力を尽くすことだ」
「それで行き詰ってるからここに来ているんだよ」
 慧音は訴えかけるような眼を向ける。
「手伝えと?」
「うん」
「解った」
「えっ?」
 驚く慧音に、霖之助は訝しげな視線を投げつけた。慌てて弁明する。
「あ、いやごめん。そんな快諾してくれるとは思っていなかったから……」
「別に。今日は天気もいいし、店の中よりも湖畔の方が涼しいだろうなと思っただけさ」
 言いながら霖之助は棚や戸をあれこれ引っ掻き回し、釣竿よりも先に徳利を持ち出した。
「……お酒を持っていくのか?」
「折角だからね」
「あのなあ、行楽じゃないんだぞ」
「君、釣りをしたことないだろう。釣りというのは時間がかかるものだし、こちらのやる気で魚が食いつくわけじゃない。のんびり行こうじゃないか。君も何か用意するものがあったら今のうちに取ってくるといい」
 釣りに明るくない慧音は、素直に彼の言葉に従うことにした。
「お弁当とかいる?」
「肴の方が嬉しい」
「釣ればいいだろう」
「それもありだ」
「はあ。じゃあ、一回里に戻ってくるから、ちょっと待っててくれ」
「いってらっしゃい」
 ひらひらと手を振って、慧音は香霖堂を去った。外に出ると思い出したかのように灼熱の陽射しが肌を刺した。手で庇を作りながら、影になっている分、店内の方が若干涼しいのだなと、今更ながら確認した。

  ◇

 里の中も暑い。陽炎がゆらゆらと膝の上まで立ち上る。麦藁帽子を被った子供たちが、大きな蜻蛉を追いかけて走っている。井戸端で母親たちが、水の減り具合について終着点の無い議論を交わしている。風鈴や金魚を売り歩く声が聞こえる。皆汗を拭いながら、形の無い熱を何とか捉えようと空を眺め、諦めたように笑っている。夏である。
 仕出屋の店先で、慧音はそんなことを思い笑みを浮かべていた。
「すみません、お弁当を包んでもらえますか?」
「あら先生。どこかお出かけで?」
「ええ。ちょっと湖まで」
「あらいいわねえ」
「あ、二つお願いします」
「二つ……?」
 仕出屋のおかみさんは太り気味な小首を傾げた後、
「ひょっとして男の人?」
「ああ、はい」
「もしかして、ちょっと前に一緒に歩いてた、あの背の高い眼鏡の人?」
「そうです」
 途端におかみさんの口がにやりと裂けた。ちょっと不気味だった。おかみさんは底知れぬ笑みを湛えたまま、どういうわけか明らかに値段以上のグレードの弁当を用意してきた。慧音は両手を振って断ったが、おまけだと言い包められて、最終的に押し付けられるような形で弁当を受け取った。
 去り際におかみさんは悪魔のような笑みで、
「頑張ってね!」
「……頑張ります?」
 歩きながら慧音は、背後から聞こえる悪い魔女のような笑い声に当惑していた。人の隠された一面を垣間見た気がする。ちょっと怖かった。しかしすぐに思い直す。きっと誰でも、隠された顔は持っている。私にも、里人にも。それと対峙した時、どのように反応するかの問題だ。
 霖之助にも隠れた顔があるのだろうか? いや、彼には隠れた顔しかないような気がする。彼の真実の顔を、いつか見ることがあるだろうか?
 無い気がするなあ。
 と、普段気にも留めない釣具屋の前で足を止めた。少しくらい予備知識を入れておこうかと思い、慣れない店の扉を開ける。店内は整然としていて、どこかの古道具屋とは大違いだ。きょろきょろと流すように見て回る。店先の樽に雑多に突き立てられていた竿と、店の奥で刀でも飾るように陳列されていた竿との区別が全くつかない。それぞれ微妙に形の違う釣針が並べられているのだが、用途が全く解からない。ひらひらと羽の付いた疑似餌も、派手だなあとか綺麗だなとしか思わない。ああ、これはもう世界が違う。途方に暮れた。
「先生、釣りに興味がおありで?」
 助け舟のように、店主の老人がゆったりと話しかけた。
「ええ、ちょっと魚を捕まえなければならない事情がありまして。覗いてみたのですが、正直さっぱりです」
 慧音は困ったように笑う。老人は嬉しそうに頷くと、
「何というお魚かな?」
「ええと、それもよく解らなくて」
「川に住むお魚かな?」
「いや、湖だと思います」
「ふむ。となるとこのあたりが無難かな。針はどうするか」
「あ、いえ、見ているだけですので」
「なんじゃい冷やかしかい。年寄りに冷たい物とは先生優しくないのう」
 老人はにこにこしながら、ふと思い出したように、
「そういえば、昨日せがれが湖のヌシを見たと言っていたな」
「ヌシ?」
「一帯の水域を治めてるんじゃないかってくらいの大物を、釣り人の間ではヌシと呼ぶ。せがれ曰く、湖のヌシは相当凄いらしいでな。乗ってた小舟がそれこそ木の葉のように揺れたそうだ。いやあ、儂も生きてる間に一度は見たいもんだ」
 と、老人は少年のような夢見る顔で笑った。男という生き物は幾つになっても少年なのだ。慧音も老人につられて笑う。
 ふと頭の中につかえを覚えて尋ねた。
「そのお話、もう少し詳しく聞かせていただけませんか?」

  ◇

 香霖堂に戻ると霖之助の姿は無く、代わりにコンコンと釘を打つ音が響いている。
 一度店を出、裏手に回ってみると、霖之助は汗を拭いながら、かちかち山の泥舟のようなくたびれた船を修理していた。
「ただいま。何してるんだ?」
 声をかけると、ようやく慧音に気付いたようで、
「おかえり。見ての通り舟を直していた。久し振りに引っ張り出してみたら相当ガタが来ていてね。急遽補修してる。あと二十分くらい待ってくれるかい?」
「舟ならあるぞ」
「はい?」
「釣具屋のお爺さんに使用許可を貰ってきた」
「……早く言ってくれよ」
 霖之助は不機嫌な顔で溜息交じりに金槌を手放した。
「無茶言うなよ。私だってまさか使わせてもらえるとは予想していなかったし。というか直したところで、どうやって湖まで運ぶつもりだったんだ?」
「大八車に乗せて君が運ぶ」
「えっ」
「まあいいか。その必要も無くなった。それじゃあ出かけよう」

  ◇

 湖へやってきた。霧深いことで有名なこの湖も、真夏の太陽の前には霧を張ることも敵わず、きらきらと美しい水面を清かに波立たせ、対岸から吹き抜ける風が爽やかに慧音の肌をくすぐった。涼しい。何とも良い心地だ。自然と顔がほころぶ。
 霖之助は早速三脚のようなものを立てて、汀に釣竿を固定した。
「来て正解だったな。涼しい」
「もう、遊びじゃないんだぞ」
「解ってるよ。でもいいじゃないか、少しくらい」
「まあ、そうだな」
 見通しの良い凪の湖を眺めていると、心が柔らかくなっていく。あれほど鋭かった日光も、まるで包み込むように感ぜられる。
 水際を少し離れて、木陰で弁当を広げて二人で食べた。
「九天の滝はもっと涼しいんだろうな」
「滝って、妖怪の山の? 行ったことがあるのか?」
「まあね」
 簡単に言うが、山は天狗たちの領域である。どうやって近づいたのだろう?
「お前って妙に行動範囲が広いよな」
「そうかい? しかし凄い弁当だな。高かったろう」
「いや、それがよく解らなくて」
 と、慧音は仕出屋のおかみさんの口が裂けたような微笑みを思い出した。何となく、今晩夢に見るかもしれないなと思った。複雑な顔をしていたらしいところを霖之助に指摘され、いささか恥ずかしくなった。
「ところで、釣竿の傍に付いていなくてもいいのか?」
 慧音は竿を振り返る。釣竿は標識のようにピクリとも動いていない。
「ああ、いいのさ。君は水中に釣針を下げておけば、磁石みたいに魚が寄ってきて、苦労せずとも食らいつくと思っているだろう」
「違うのか?」
「そんなことが出来るのは海幸彦くらいだ」
「記紀の?」
「そう。彼の持っていた針なら鯨だって釣れる。永く親しんだ道具には時折規格外の霊性が宿ることがあるんだが、彼の針もそういった特別製だ。釣る前から『釣れた』という結果が刷り込まれているんだ。だから弟の火遠理命に千五百の針を返されてもそれを許さなかった」
「ふうん」
「未だにあの終わり方には納得いかない」
「あ、それは私も思ったことがあるな。ちょっと理不尽だよな」
「まあ神様って総じて理不尽なものだ」
「……凄いこと言ったなお前。どうなっても知らないぞ?」
「そういう一面もあるって話だよ。人と同じさ。色々な顔があるんだ。盲目的に一面だけを信じていると、いつか痛い目を見るぞ」
 ちょっと言葉が切れて、穏やかな沈黙が流れた。
「だからお前は偽名なのか?」
 慧音は思い切って疑問を一つ打ち明けてみた。
「信用無いな。霖之助は本名だって言ったじゃないか」
「どこまで信用すればいいのか解らない」
「それは僕が決めることじゃないね」
「まあ、そうだけど」
 それから弁当を平らげるまでほとんど無言だった。しかし居心地の悪さは感じなかった。
 風が木の葉を囁くように撫でる。その葉擦れが心地よく耳に届く。涼しさは聴覚でも感じるものなのだ。慧音はうっとりするように眼を閉じた。たまにはこうして、屋外で食事をするのも悪くない。

 水筒に入れてきたお茶を飲みながら、釣具屋の息子が見たという湖のヌシについて話が変わった。
「ヌシねえ」
「見たといっても、魚影を見ただけらしいんだけれどな。凄い大きさだったらしい。あまりの大きさに、初めは雲の影かと思ったんだとか。呑み込まれてしまうんじゃないかって、寿命が縮まる思いだったそうだ。その割には楽しそうに話してくれたけれどな」
「気持ちは解るな」
「ふうん。どうだろう、少し怪しくないか? 昨日の午後っていうタイミングが余計に関係ありそうな気がして」
「かもしれないし、そうじゃないかもしれない。本当にこの湖を治める主である可能性もあるし」
「うーん、よく解らないけれど、私は何だか、くるくるちゃんが単なる魚じゃないような気がするんだ」
「だろうね。それじゃあ、息子さんに倣って舟を出してみるか」
 霖之助は瓶子を腰にぶら下げたまま立ち上がり、つかつかと釣竿に歩み寄った。そういえば彼は酒を持ってきた割に一度も口にしていない。固定されていた竿を外し、糸を水から引き上げると、慧音は思わずあっと声を上げた。そもそも糸の先に針すら付いていなかったのだ。

  ◇

 湖の東端に繋がれていた小舟に、慧音は促されるまま乗り込んだ。霖之助は舫を外し、軽く弾みをつけてから乗り込む。小さな船とはいえ、二人が乗るのには十分だ。波も穏やかで、舟は滑るように水面を走っていく。舟に乗るのはどのくらい振りだろう。意図せず心が高鳴ってしまう。岸から少し離れたところで、具えられた櫂を使い始める。
「何で私が漕ぐんだよ!」
 慧音が慣れない手つきで一生懸命舟を操縦しながら言った。
「生憎、僕は釣竿を見張っていなければならなくてね」
「嘘吐け! さっきと言ってること違うじゃないか!」
「状況が違うからね。おっと、進路が右にずれてるぞ。ところで今更だけれど、君、舟は大丈夫かい?」
「なんで?」
「乗り物に弱いみたいだから」
「余計なお世話だ! 大丈夫だよ」
 舟はぎこちない軌道を描きながら、たっぷり時間をかけて、何とか湖の中心まで辿り着いた。その頃には慧音はへとへとになっていた。恨めしげに霖之助を睨む。霖之助は全く気にしていない。ああもう。
「さて」
 と、霖之助は何を考えたか、竿を分解し始めた。一体どうしたのかと見ていると、霖之助は身を乗り出して、
「ちょっと、髪の毛を十本ほどもらうよ」
「え、どうして? あ、ちょっと! 痛い痛い!」
 ぷちんぷちんと弾ける音が聞こえ、霖之助の手には数本の長い銀髪が残った。慧音は頭をさすりながら涙目になって訴えかける。
「何するんだよ!」
「釣り糸にするんだ」
「えっ?」
「相手は普通の魚じゃない。だからこちらも普通の魚を釣るのと同じ方法では駄目だ」
 言いながら霖之助は、竿の先端に慧音の髪を結びつける。次いで懐からお守りのような小さな巾着袋を取り出して、中身を掌に明ける。ころりと乳白色の粒が出てきた。慧音は目を見張る。
「まさか真珠?」
「ああ」
 事も無げに答える霖之助に、慧音は更に目を丸くする。海の無い幻想郷で、真珠は途方も無く高価な宝石なのだ。
「ど、どこでそんな……」
「欲しいのかい? 滅茶苦茶高いよ」
「いや、いらないけれど……」
「そうだね。君なら鉱石の方が似合う」
「はあ。えと、それでその真珠をどうするの?」
「これが針の代わりさ」
 霖之助は髪の糸の先に真珠をきつく縛り付け、静かに水の中へ落とした。
「ちょっと持ってて」
 と、慧音に釣竿を渡し、瓶子の蓋を開けると、糸の下がった水面へ向けて、中の酒を一滴残らず撒いた。あっけにとられる慧音をよそに、霖之助はやることはやったと言わんばかりに、満足そうに座り直すと、
「さあ、あとはかかるのを待つだけだ」
 と、空っぽの瓶子に口を付けた。

  ◇

 ところが、待てど暮らせど魚はかからなかった。釣りには時間がかかると聞いてはいたが、流石に退屈を隠せない。慧音は無心に水面を眺めたり、対岸を眺めたり、雲の形を眺めたり、舟縁にもたれかかって、水面に手を伸ばし水の感触を楽しんだり、ぱちゃぱちゃ音を立てて遊んだりした。しかしそれにも飽きた。霖之助はちゃっかり本を一冊持ってきていて、すっかり読みふけっている。貸してくれそうにはない。気が付くと日は傾き加減である。たまらず声を上げた。
「時間がかかりすぎじゃないか?」
「何故太公望が知将になれたか知ってるかい?」
「さあ」
「考える時間が山程あったからだ」
「でもなあ」
「生き物を相手にしているんだ。こちらの都合など罷り通らなくて当然さ」
「いや解るけれど」
「だったら大人しく待つんだね」
「うー」
 微かに茜色に染まってきた陽光が、ひっきりなしに反射して湖を美しく輝かせる。蝉の鳴き声もどこか遠い世界の出来事のようで、ただ風の音だけが、柔らかく髪を膨らませていく。
 慧音は風景をしばし眺めた後、願うように水面を覗き込んだ。水鏡には想像以上に子供っぽい顔をした自分が写り込んでいて、思わず顔を引き締める。存外、自分でも楽しんでいるのかもしれない。いけない、いけない。遊びじゃないんだから。
 と、目の前を黒い影が横切った。はっと顔を上げて、霖之助の袖を引っ張る。
「今、何かが下を潜って行った!」
「本当かい」
 霖之助は本を読む手を休めて、慧音の隣に座り直し、並んで湖面を覗き込んだ。よくよく目を凝らしてみるが、影はもうどこにも見えない。
「どんな形だったか見えた?」
「いや、そこまでは。多分背鰭だったと思うけれど」
「くるくるしてたかい?」
「くるくるしているのは尻尾だよ」
「ちょっと気になるんだが、尾鰭ではなく尻尾なのか?」
「同じだろう」
「だといいんだが」
 俄かに水面が波打ち始めた。風が出て来たのかと、慧音は空を眺める。無論風など無い。
「雲行きが怪しくなってきたな」
「あっちの方を見てごらん。凪のままだ。波が出ているのは舟の周りだけらしい」
「てことは……」
「かかったかな?」
 霖之助が釣竿を引き上げようと立ち上がった瞬間、突然水面が盛り上がり、舟が風の前の塵のように右へ左へ大きく揺れた。霖之助は滑って転び、釣竿は水の中へ引き込まれていった。今の今まで穏やかだった湖がまるで違う顔を見せ、波が暴力的に巻き上がって舟の中に吹き込んでくる。水が噴火するように爆ぜている。局地的に嵐が起こっているみたいだ。慧音は思わず霖之助にしがみついた。霖之助は両手を舟縁に渡して、何とかバランスを崩さぬよう躍起になっていた。
「今更なんだが、くるくるちゃんは優しい性格の子なのかい?」
「た、多分! だって、飼い主が凄く穏やかな人だし!」
「だからこそ、見知らぬ相手に向けて警戒心剥き出しになったりしない?」
 その時、どかんと大きな衝撃が舟を襲った。水中から山がせり上がってきて、舟底に衝突したかのようだ。ただでさえ大渦に呑まれる蟻のようになっていた舟が更に傾く。櫂が二本とも水中に引き込まれていった。続けざまにもう一つ衝撃が襲う。二人の体が跳ねて舟の上を転がった。慧音はつい悲鳴を上げてしまった。
「これは、あれか? ひょっとしてじゃれついているのかな?」
「じゃれついてるって!」
 珍しく顔を引き攣らせる霖之助に、慧音は不安を煽られた。
「噛みついたりしないよなあ?」
「噛むの? 魚って噛むの?」
「噛むよ」
「噛むの!? うわっ!」
 再び舟が揺れる。上に下に右に左に、一秒として同じ姿勢を保っていない。気が付くと足首が埋まるくらい水が入り込んできている。流石に恐ろしくなった。水面下で何が起こっているのか、確かめようにも舟から首を出すことが出来ない。いよいよ血の気が引いてきた。
「岸まで泳げる?」
「自信無い!」
「僕もだ」
「そんなあ!!」
 次の瞬間、一際大きな衝撃が舟を貫き、二人は荒れ狂う水面に投げ出された。
 途端に水面は嘘のように静まり返った。後には漂う小舟が残るばかりとなった。

  ◇

 一度水面を通り抜ければ、水はなんと柔らかく体を包むのだろう。きっと母の胎内というのはこんな感じなのだ。あまりの穏やかさに、慧音は天地も忘れて沈んでいく自分を、この上なく俯瞰して捉えていた。
 突然のことで感覚が麻痺しているのだろうなと思った。指先すら動かせない。声ももちろん出ない。さっきから呼吸もしていない筈だが、不思議と苦しさは感じていない。泡が頭から足へ向けて流れているところを見ると、私はさかさまに沈んでいるらしい。だというのに、暗くも、怖くも無い。どこまでも青い世界。水圧がたまらなく愛おしいもののように感じる。髪がゆらゆらと陽炎のように広がってなびいている。まるで自分とは独立した一個の生き物のようだ。水の流れが煙のように揺蕩って、幻想的なカーテンを作り出している。
 とても美しかった。

 やがて、眼前に途方も無く巨大な魚が姿を現した。
 慧音はぼんやりとした目でその姿を捉えようとするが、巨体の影を掴むにすぎなかった。
 その形は水そのもののように流動している。単純に、山のように大きな魚にも見える。強固な鱗を構えた鰐のようにも見える。しなやかな体躯のイルカのようにも見える。鋭い牙を覗かせる鮫のようにも見える。かと思えば、長い鼻の象のようにも見える。見事な角を持った鹿のようにも見える。尾長鳥のような長い羽を持っているようにも見える。
「くるくるちゃん?」
 ほとんど無意識に声が出た。水の中だというのに、陸と変わりなく、いやそれ以上に滑らかに響いた。
 魚はゆっくりと、慈愛に満ちた速度で慧音のもとへ泳ぎ、心配そうな目で彼女をつついた後、大きな顔を仔犬のように、慧音の顔に擦り合わせた。
 自然と笑みがこぼれる。
 かわいい。
 慧音は魚に寄り添ったまま、頬のあたりを優しく撫でた。魚は嬉しそうに尾を震わせた。柔らかい尾が、動かすたびに小さな渦を巻いた。

  ◇

 ふと気が付くと、慧音は湖の上に寝そべっていた。
 上体を起こしてぼんやり周囲を窺うと、直ぐ近くに自分たちの乗ってきた小舟が漂っているのが見えた。手を伸ばして手繰り寄せようとしたとき、自分が水の上に当たり前のように立っていることに初めて気が付いて飛び起きた。
 浮かんでいるのではない。しっかりと足を付けている。まるで水たまりの上を歩くような、水面の一寸下に透明な地面が広がっているかのような感触に、目を大きく見張った。
 何が起きた? 確か私は舟から投げ出されて……
「!! 霖之助!?」
 共に舟に乗っていたもう一人を思い出して、慧音は大声を上げた。
「霖之助! 霖之助!」
 水の上を走り回って、目を忙しなく動かす。四つん這いになって、水の中を覗き込む。どこだ? 全く姿が見えない。一秒一秒と、焦燥は肥大化する。

 突然、水面が大きく盛り上がった。一瞬彼かと思ったが、まるで山のようなそれに考えは泡と消えた。
 目の前で、水が竜巻で吸い上げられたかのように柱となった。あっけにとられて見ていると、水の塊は突如動きを止め、いきなり内側から爆ぜた。思わず手をかざしたが、一向に水は飛んでこなかった。また、聞こえる筈の水音も全く聞こえなかった。
 見ると、破裂した水はそのままの形で空中に止まっていた。そして水の中心に、先ほど見た巨大な魚が、長い鰭を鳳凰の羽のように漂わせていた。
 固定された飛沫が、一つ一つ日の光を反射し、金剛石のように輝いている。まるで時が止まったかのような美しさに、慧音は何もかもを忘れて、呆然と見惚れていた。
「ありがとうございます」
 鈴のような声で目を覚ました。気が付くと、いつの間にか魚の首筋に、あの美しい女性が抱き付いていた。着物の袖や長い髪が、風も無いのに柔らかく波打っている。重力が無い。まるで水の中にいるみたいに。
 見上げながら慧音は、突如強烈な畏敬の念に駆られた。壮大に浮かぶ巨大魚と、その首に巻き付いた可憐な天女が、まるで自然そのもののように見えた。
 女性は長い睫を下げて、全てを包み込むような優しい微笑みを浮かべた。
「大変なご迷惑をおかけしました。お礼と言っては何ですが、今後水にお困りの際は西方に向けてお祈り下さい。如何なる水禍からもお護り致します」
「あ……はい、畏れ入ります……」
 慧音は半分上の空の状態であった。目の前の光景があまりにも幻想的で、自分は夢を見ているのではないかと疑った。
「それじゃあ、おうちに帰ろう? くるくるちゃん」

「……ぶはっ!!」
 慧音の背後で霖之助が水面から顔を出した。咄嗟に彼を振り返る。
 霖之助は肩で息をしながら、水の上に座り込んでいる慧音と、その後ろで宙に浮いている巨大な魚を見た瞬間、突然水が崩れ始めた。魚が湖に飛び込むと同時に、慧音の足元が唯の水に戻って、彼女も霖之助同様水中に没した。慌てて顔を湖面に出したとき、宙に固定されていた水の礫がまるで豪雨のように襲いかかった。
 僅か五秒にも満たない間の出来事である。気が付くと湖は波紋を残して、いつも通り穏やかな表情を見せていた。

 二人はぽかんと顔を見合わせた後、霖之助が慧音の肩を掴んで、興奮気味に語った。
「凄いぞ! マカラだ! 初めて見た! 嘘だろ、信じられない!」
「マカラ……?」
「水天の騎乗獣だよ!」
「え? ……えっ! それじゃあ、あの女の人って……」
「奥さんのヴァルナーニかな」
「えええーっ!?」
 小舟まで泳ぐ。幸い転覆もせず、思ったよりも水を被っていない。傾かないように協力しながら乗り込むと、霖之助はようやく一息ついた。
 一方慧音はわなわなと震えながら、
「そ、そんな大人物がどうして私なんかの所に……」
「喜びなよ。顔見知りになれたじゃないか」
「か、格が違いすぎるって! やだ緊張する!」
「だからだろうね。うっかり神格が高いと、ただその場に居るだけでも周りに影響を与えてしまう。迂闊に行動出来なかったんだ」
「なるほど……」
「しかしいいものを見たなあ。出てきた甲斐があった」
 霖之助は満足そうに背伸びをした。慧音も何となくつられて微笑んでいたが、ふと何かに気が付いて表情を変え、舟から身を乗り出すときょろきょろと水面を探し回った。
「どうかした?」
「……櫂が無い」
「あー、本当だ」
「どうやって戻ろう?」
 困った顔を向ける慧音に、霖之助は力を抜いて見せた。
「後で考えよう」
「そんなこと言ったって」
「ま、何とかなるだろう。ほら、丁度夕日が良い時刻だ。少しくらいのんびりしたって罰は当たらないさ」
 そう言われて、慧音は振り返り、赤く染まりゆく湖に目を奪われた。自分たちを中心に、赤い波が花火のように煌めいている。
 心の底から綺麗だなと思った。それ以外に何も浮かばなかった。どうしてこんなに綺麗なんだろう? 見慣れていないということは無い筈なのに、何だか初めて見たもののような気がして、随分長い間見惚れていた。
「綺麗だ」
「うん」
 自然にそう返した。霖之助はちょっと微笑んだ後、
「しかし、『くるくるちゃん』は無いよなあ。センスを疑う」
「あ、私も少し思った。でもいいじゃないか、可愛くて」
 と、互いに声を上げて笑った。

  ◇

 翌日も幻想郷は暑かった。ただ、一つ変化があった。今日まで減る一方だった井戸の水が、突然滾々と湧き出てきたのだ。しかもその水は清涼なることこの上無く、生涯においてこれ程の水を飲んだことが無いと、里の古老を落涙させる程であった。
 寺子屋にも変化があった。妙に涼しいと思ったら、いつの間にか窓の表面を冷たい水が流れているのだ。去年に続き「涼しい寺子屋」の再開かと里人がわっと押し寄せ、喜ばしやら授業にならないやらで、慧音は始終困ったような笑みを浮かべていた。

 人里の夏は、そうやって過ぎて行った。




------------------------------------------------------------------------------------
                               終   20110904
------------------------------------------------------------------------------------
香霖堂奇譚 | 【2011-10-04(Tue) 00:00:00】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。